電脳経済学v3> g自分学> 1-1 初心忘るべからず

電脳経済学v3> g自分学> 1-1-1 不思議な出会い

不思議な出会いから、いっさいが始まります。
私たちの人生は色々な人との出会いで始まり別れで終ります。この間にくりひろげられる悲喜こもごもの人間模様について、これから一緒に考えていきたいと思います。

会うと会わざるとは時なり、といいます。
私たちは縁あってこの世に生をうけ、この時代と場所を共有しています。それに理由を見出すことはできません。出会いは人間の知恵や意志を超えたものです。私たちはこの前提条件の内側でしか生きることができません。それは運命としかいいようのないものです。
出会いの中でも、親子の出会いは最も劇的です。親は子を選べず、子は親を選べないのです。師との出会い、友人との出会い、夫婦の出会い、さらには書物や音楽との出会いもあります。このような出会いを通して、私たちは自分の中に潜むもう一人の自分に出会うことができます。
幸せな出会いもあれば、不幸な出会いもあります。しかし、それはあとになってからいえることです。

年々歳々花咲く季節がめぐってくると、新入社員や新入生の初々しい姿に接することができます。それは心なごむ光景であります。自分にもああいう頃があったのだなあという感慨新たなものを覚えます。
新しい職場との出会いもまた、ただならぬ縁です。社会の一員として、祝福されて新しい職場に迎えられることは、厳粛かつ意義深いことです。
このとき迎えられる側の本人が、どのような心構えをもって、社会人あるいは職業人としての第一歩をふみ出すかは、その人の将来における人生航路に大きな影響を与えるものと思われます。このことについて二つの点からふれてみたいと思います。
一つは「後悔しない」ということです。過去に悔のない人は誰もいません。つまり誰の場合にも望み通りの就職はなかなかできないということです。就職はできても、配属先が意にそわないというようなことは、むしろ日常的でさえあります。
自分の実力からすれば、もっといい会社に行けたはずだったのに、という思いが残っているかも知れません。しかし、もしそのようなわだかまりが少しでも残っているとすれば、それは本人はもとより、受けいれてくれた会社にとっても不幸というものです。
本当に実力があるのなら、それはどこででも発揮できるはずのものではないでしょうか。むしろ小さめの会社の方が力を出せる機会には恵まれています。さらに一歩進めて、大きい会社といえども最初は小さかったのだから、自分の力でこの会社を一流にしてやろう、という気になればなお結構というものです。
会社や組織は大きいからよいものではありません。何事も変転極まりないというのがこの世の姿であって、今はよくても将来のことはわかりません。問われているのは、本人の心構えであり、自分に適している職業であるかどうかです。
自分を生かす道はこれをおいてはない。いまここから自分の将来が開けるのだ。自分がいまこの立場にあることは深い意味があるけど、今の自分にはそれがよくわかっていない。このようなことに気づいて、一刻も早く気持の整理をすることです。人間は自ら納得しないことには何ともならないのです。
考えても仕方のないことはきっぱり忘れる"断念の術"もまた、この世を渡っていく上で必要なことです。くり返しになりますけど、自分の過去に満足している人はこの世に一人もいないと思われます。だからこそ誰もが未来に希望をつないで今日を生きているのではないでしょうか。
二つめは「初心を忘れない」ということです。この「初心忘るべからず」は、新しく事業を始める人や、結婚をする人たちに贈られる言葉として、しばしば用いられます。世阿弥が『花伝書』の中で「ただ、返す返す、初心を忘るべからず」と述べていることに由来します。『花伝書』は正式には『風姿花伝』とよばれ、世阿弥が父観阿弥の教訓を自らの体験によってまとめた能の奥義書で、世界最古の芸術論といわれています。
その意味するところは、最初の感激や情熱を忘れないようにという励しです。同時にそれは、何も知らなかった、何もできなかった“当初の謙虚な気持をもち続けなさい”というさとしでもあります。
先入観をもたないという意味で、初心は、虚心あるいは無心とも相通じるものがあります。
この新鮮な感覚、素直な気持は人間の備えるべき基本的な徳目といえるものです。事実、私たちの周囲を見渡しても、それぞれの道で大成している人は、その淳朴さにおいて年齢を感じさせないものがあります。心が透明だからこそ、知識を吸収することができ、人の話を聞いても理解することができる、このように思われます。自己執着がないのです。
初心とはまた「どうか教えて下さい」「何か社会の役に立ちたい」という気持でもあります。誰の場合でも、いくらかの社会経験をつみ、勝手がわかってくると、高慢心が頭をもたげがちです。自分の流儀を立場の弱い者に強制したり、物事を自分の都合によって解釈したりします。
私たちの現在の姿は、何もないところから“育てられてきた存在”であることを忘れてはなりません。出会いが機縁となって“ともに育つ”道を歩む、それが人間関係本来の姿といえます。

運命的な出会いは歴史の上でも数多く見られます。むしろ歴史そのものが運命的な出会いによって形成され、色どられているともいえます。ここではその一つとして、パウロとキリストの出会いをみてみましょう。
パウロはキリストをひとたび知ったのちは、自分が今まで得だと思っていたことが全部損になり、損だと思っていたことがすべて得になったように思えてきた、といっています。考え方において、天地がひっくり返ってしまったわけです。
パウロはユダヤ人にしてローマ市民であったところから、異邦人の使徒といわれています。もともと熱心なユダヤ教信者でしたけど、復活したキリストに接したと信じて回心し、生涯をキリスト教の伝道にささげました。その名は『新約聖書』にあるパウロ書簡によって広く知られています。
キリスト教はそれまで、地中海東部沿岸地方の民族宗教にすぎないものでした。しかしパウロとの出会いを契機として、それはローマ帝国内に伝道されることとなり、ひいては世界宗教として位置づけられる道が開けたのです。パウロなくしてキリスト教なく、キリスト教なくして今日の地球文明なし、といってもいいすぎではないと思われます。
今日、私たちの身近かにある政府、軍隊、学校、病院、会社といった近代的管理組織およびその運営法の原型は、キリスト教布教活動のための教会組織にあるとされています。キリスト教に対する理解なくして、西洋文明の本質的理解に達することはできません。国際化時代を迎えている今日、相手の文化的な背景を知らずに相手を知ることもまたできないものと思われます。