電脳経済学v3> g自分学> 1-2 不満をエネルギーとする

電脳経済学v3> g自分学> 1-2-1 誰もが社会の歯車

「われわれ労働者はどうせ産業社会の歯車なのだから、一生涯つまらない仕事ばかりさせられて、自分の能力を発揮する仕事なんて与えられることはない。こんな安い給料でゴリゴリこき使われて、あげくの果てにはきっと使い捨てられるに違いない。だから、体制側に精一杯抵抗して、存在を認めさせるほかはない」ツッパリ青年や、不満分子はどの世界にもいるものです。

この世に不平、不満が絶えることはないとはいえ、ここまで理路整然とした考え違いを展開できれば、それは捨てがたい才能とよぶべきでしょう。最初のパウロの言葉にあるように、考え方をそのままひっくり返せばいいのです。トーンとして被害者意識が強くて、マイナス思考ですから、全体にマイナス1を掛ければ肯定的な生き方ができそうです。

歯車とか部分というなら、いったいこの世に全体の主宰者がいるのでしょうか。ある首相経験者によれば、「総理大臣になってみたけど、五パーセントも思うようにならなかった」そうです。下の方から眺めていると、偉い人は自分の考えで物事を動かしているように見えて羨ましく思えます。ところが実際は、立場が上るにしたがって職務上の制約はかえって多く、我慢と苦労の連続なのです。責任が重いとはそのことをさします。その影響力が大きければそれなりに、世間の評判を気にしながら、こうしたらよいか、ああしたらよいかと、夜もおちおち寝れない位気を使っているのです。次から次ともちこまれる無理難題に頭を悩ます判断用歯車には、ぐちをもらす自由さえないのです。
不満があること自体が悪いわけではありません。それは一種の意欲につらなるからです。不満をかこつ、つまり逃げ口上を並べたり、他人のせいにしたりするから、話がややこしくなるのです。こんなに暑くては、仕事をやる気がしないという人は、寒くても、雨が降っても、風が吹いても、やる気がしないものです。たまに天気がよくなると頭が痛くなったりという具合です。
これは天気が問題なのではなく、やる気がないのが問題なのです。天気の場合はまだ罪が軽いとしても、これがあんた奴と一緒に仕事をやる気がしないとなると物騒になってきます。この場合、最初から自分はやる気がないことを認めてしまえば、なぜやる気をなくしたかを調べることによって、解決の糸口が見つかるというものでしょう。
社会が悪い、政治が貧困だという声も、この限りでは、単なる不満の域を出ません。社会も政治も、自分たちのありかたの現れであることを思えば、それは天につばしているも同然というべきです。この不満を一歩進めて、社会のどこが、どう悪いのか、その思いが問題意識です。次に問題の輪郭が浮ぶ程度になれば問題提起の段階といえます。
仕事はそれがさらに整理されて、具体的に目の前に現れたものです。このようにみると仕事をするとは、直接、間接に社会がかかえている問題の解決に参加していることになります。
冒頭の歯車青年によれば、つまらない仕事をさせられるとあります。それは自身の中に“つまらないと思う心”があるだけで、およそ世の中に“つまらない仕事”があるわけではありません。つまらないと思う心でことに当れば、ことごとくそうなり“つまらない人間”のレッテルを貼られてしまうだけです。
つまらない仕事とは単純なくり返し作業をさすものと思われます。しかしそれは表面的に単純そうに見えるだけのことです。人間の心理状態や環境条件は時々刻々に変動していますから、その結果としてのモノやコトには、その間に微妙な違いがあるものです。
かって、ある大手の会社で受付嬢が社長秘書に抜擢された話を耳にしました。その女性は来客の応接を通じて、来客と社員の顔、名前、立場、服装、お茶の好みから、およそ会社の利益に関連するあらゆる情報を覚えてしまったということです。
この女性は来客や社員のそれぞれの人を、同じとみずに、違うとみたのです。それぞれの人のどこがどう違うかに関心を寄せ、真心をもって接しただけのことでしょう。おそらく本人には特別の意識は何も働いていなかったと思われます。このちょっとした心がけの差が、永い生涯では想像もつかぬ差となるのです。

人事の要諦は適材適所にあるとされています。しかしこれはその人の評価がある程度定まってからのことです。しかも本人の側の態度としては、人事当局の多様な要求につねに対応できなくてはなりません。春秋に富む若者が自ら自分の可能性の範囲を狭める必要はありません。
人間には往々にして、自分でも気づかない才能があるものです。苦手な分野を克服することも、異なった世界の経験をつんでおくことも、いくらかの失敗が許されることも、身近かな人に気軽に聞けることも、これらはすべて若者の特権といえるものです。底辺の幅を広げられる時期は限られています。その時に逃げたり、手を抜いて得をしたように思えても、いずれ手づまり状態になり禍根を残します。
人間社会では、それぞれの分野で、色々な性格特性をもった人を必要としています。営業は社交的な人、経理は几帳面な人といった既成概念にこだわっていると、ますます複雑多様化していくこれからの時代に対応できなくなります。
私たちの人生に無駄というものは何一つありません。その時は何の関係もないと思っていた別な分野の仕事が、経験をつむにしたがって次第に関連づけられ、意味をもってくるようになります。誰もが自分なりの一つの世界をもっています。同時に誰もがその世界を体系づけていく過程にあるといえます。
自分の専門が生かされないという苦情もよく耳にします。前述の点をよくふまえて、専門とは何か考え直す必要があります。専門とは最初にあるのではなく、自分がつくり出した世界に対する敬称として与えられるのです。専門ということを自分勝手に狭く解釈せずに、“拓魂”をもってことに臨みたいものです。
誰も教えてくれないとか、指導者に恵まれないという話も聞きます。これは相互の関係といえます。本人次第で伯楽はどこからともなく現れてくるものです。基本的に、立派な大人であれば独力で道をきり開いていくものでしょう。

誰もが自由を享受しているように見えながら、誰もが我慢を強いられている。これが現代管理社会の情況といえます。あらゆる分野にわたって、競争を前提として社会が成り立っていて、それにうち勝つには全体としての能率をあげなくてはなりません。それには人間の特定の能力を部分的、反覆的に用いることになります。これが現代人の不満のもとであり、さらにはここから心身のバランスが崩れていきます。
人間が本来もっている全体性を回復するには、本人が自分の責任のもとに注意するほかありません。私たちは家庭生活や余暇活動を通して、心身の平衡をとり戻すよう努めなくてはなりません。人生をまっとうする上で、正しい労働観は欠かせません。人間には生来働かずにはおれない衝動があります。これを抑えていれば負い目を背負うことになり、働きすぎもまた知恵のない姿に映るものです。中庸とか分別が説かれるゆえんです。