電脳経済学v3> g自分学> 1-2-4 随所に主となる

人の往来の激しいところ、たとえば駅のコンコースなどで、ほかの人とぶっつかりそうになった経験は、多くの人がもっていると思われます。その場合二つの原因があります。一つはお互いに横を向いて歩いていた場合で、他の一つは、片一方あるいは双方が急いでいて、避けきれない場合です。
このことを人間関係にあてはめてみましょう。身近かな問題として、合性をとりあげてみます。合性がいいとは、まずお互いに相手を注意深く観察しているといえます。しかも、心的態度として、つねに相手の美点に眼が向いています。仲のよい恋人や夫婦にみられる理想的な人間関係です。
次は片一方が大人である場合です。相手をすっぽりと受けいれる態度をとった場合は、衝突はあり得ません。このような関係は、親子あるいは師弟の間にみることができます。この場合もまた理想的な人間関係といえます。必ずしも上司が大人で、部下が子供とは限りません。この場合情報量が問題ですから、立場に関係なく関連情報を多くもっている人が少ない人を受けいれれぼよいのです。
問題は合性が悪い場合ですけど、その答はおのずから先に述べた内容にふくまれています。つまり、お互いに相手に関することを知らないわりに、一方的に相手に期待しすぎている場合に、具合が悪くなるようです。共通の欠点がぶっつかり合う場合もあります。
それは、自分の目的を相手を通して実現しようとしているからです。しかも、そのもととなっている白身の要求が大きいために、早くことを運ぼうとあせっているのです。仕事の頼みかたはむつかしいものです。さらに多くの場合“…はず”とか“…べき”という無言の圧力で相手を責めているのです。物事がうまく行かないのは要求が一方的なのです。
自分の目的は自分で達成する。他の人が協力してくれるのであれば、それはそれでかたじけないこととしても、あてにはしない。むしろ人の手伝いを申出る、これが大人の態度というものでしよう。人は決して命令では動きません。動いているようでも、つまりは「面従腹背」なのです。

「随所に主となる」とは、自主独立の精神を説いたものです。この言葉は『臨済録』という禅宗の教えからきています。「なんじ、すべからく、随所に主となれば、たちどころに皆真なり」がそれです。“独立者はどこに立っても周囲と調和していける”これがその意味するところです。これを主人になるとか、中心になるととると、丸反対に解釈してしまうことになります。
この「随所に主」という考え方は、仏教の根本原理である「諸法非我」(「諸法無我」ともいわれる)の立場と符合するものです。それは“万物は相互関係によって存在している”ことを述べたものです。
さて、その「随所に主となる」ために、ここに次の二点を提唱したいと思います。
「いつも円満である」
「けしてグチをいわない」
相互に確認し合うために対句になっています。言葉は簡単でも実行はそう容易なものではありません。何はともあれ、私たちの毎日は不断の前進でなくてはなりません。
そのためには、前節で列記したマイナス言葉を使わないことです。しかし、それでは日常生活が味気ないものとなりますから、むしろ積極的によい言葉に置きかえる工夫が求められます。必ずしも妥当な表現とはなっていないかも知れませんげど、次にいくつかその例をあげてみました。
人間の言葉と感情の関係は、交互の“はね返り”であることがわかります。

ぶしつけ→開放的
不親切→てきぱき
おしやべり→ほがらか
いいかげん→幅がある
うるさい→にぎやか
ずさん→大らか
出しゃぱり→気がつく
優柔不断→慎重
あつかましい→積極的
欲ばり→意欲的
怒りっぽい→率直
ほら吹き→博学
うすのろ→ひかえめ
うぬぼれ→頼もしい
軽薄→気さく
癖がある→個性的
おっちょこちょい→活動的
神経質→繊細
恥しらず→たくましい
いばってる→貫禄がある

このような言葉が臨機応変に出てくれば、その時がまさしく「随所に主」となった状態といえます。