電脳経済学v3> g自分学> 1-3 日々是完全燃焼のすすめ

電脳経済学v3> g自分学> 1-3-1 自分の値打ちは自分がつくる

「四十すぎた顔はみな自分自身の責任である」といったのはリンカーンです。リンカーンもちょっといやらしいことをいってくれた感じもしますけど、やはりこのことは誰しも経験的に認めざるを得ないところです。
同窓会などで数十年ぶりの旧友に再会すると、なるほどこれがリンカーンいうところのいわゆる自分の責任による顔か、と思われる人に出会うことがあります。人の顔形は毎日見ていると同じように見えますけど、永年の間には想像以上に変るものです。顔や姿形さらに才能も、親譲りというより、本人の心がけとその後の環境の相互関係から定まっていくように思われます。
顔形と名前は対をなしています。顔は象徴的に、名は表象的にその人を表わしています。「顔は履歴書である」と同時に自身の人生経験を表現している芸術作品でもあります。私たちは自分自身という動く肖像を、毎日内側から製作している彫刻家といえるのではないでしょうか。

かつて、民衆が無知蒙昧な時代には読み書き算盤ができる、つまり学問があることは尊敬に値することでした。身分制度が厳しい時代にあっては、家柄は何物にもかえがたいものでした。多くの人々が赤貧洗うが如しといった生活を強いられていた時代には、資産があることは羨望の的でした。階級がものをいう社会では、人々が求めるものは立身出世による社会的地位でした。
ひるがえって現代はどうでしょうか。身分・学歴・資産などが一部の人たちの占有物であった時代は終りをつげようとしています。格別なことを望まない限り、大多数の人々はこのような目標は達成してしまったのです。今や日本は世界有数の豊かな国なのです。のみならず、まれにみる平等社会が実現しています。これは驚くべき事実といえます。
誰もが身なりは小ぎれいです。しかも顔つきは賢こそうです。世界中の食料品が店頭に並んでいます。多くの人が瀟洒なマイホームに住んでいます。車庫にはピカピカのマイカーが、家の中には各種の調度品や工業製品がところ狭しと置かれています。
さてそこから、どのような要求が起きてきたかとみますと、驚いたことには、今度は平等では面白くないということです。彼と私の区別がつかないではないかというわけです。今や自己主張の時代となりました。目立たなくてはならない、しかもモノやカネでなくてとなると、内外に主張することのできる何ものかがなくてはなりません。
個性あるいは才能とよばれるものがそれです。それには、周囲を説得するに足る、一味違った持味がなくてはなりません。タレント時代の始まりです。タレントとはテレビなどの出演者をさしますけど、本来は才能を意味する言葉です。
かつては、自己主張が強いことは悪徳とされました。なまじ才能や個性があると周囲と衝突して、協調性に欠けるというレッテルが貼られたのです。しかし人間活動の領域が広がってくるにつれて、これからはあらゆる分野で個性派が求められます。独創的な発想に基づく創造性の時代を迎えているのです。
おしなべて、日本の社会は人間の能力や資質の差を率直に認めないところがあります。それは年輩層を中心として、人倫関係優先の儒教的倫理観が根強く残っていることによります。権威に盲従する事大主義と人間みな同じとする平等主義が同居しています。この双方の挟み打ちで、多くの才能があちこちに押しこめられているように見受けられます。
しかしこれからは異質の才能同志が協調していくジョイントの時代です。あらゆる分野で複雑な組み合わせの形をとりながら競争はますます激しくなります。組合せのための触手の質量、さらにその調整能力が問われます。私たちの本当のライバルは見えないところにいるのです。

私たち人間社会の職業は大きく二つにわけることができます。創造的分野と管理的部門がそれです。英語ではこれを区別して前者をプロフェッション、後者をオキュペーションとよびます。これまでも創造分野に適する人は人間活動の領域を広げ、管理部門に向いた人はその後方支援ないし保守管理という形で、役割分担が行われてきました。
近年における機械、電気、電子産業分野の技術進展は顕著であり、多くの定形的作業は順次自動化、機械化されつつあります。このような時代背景から製造部門での経験を生かすには、大きく三つの方向が考えられます。そのままの延長で高度化する方向、ソフト化によるコストダウンの方向、ノウハウ型マーケッテングの方向、がそれです。
私たちの職業活動は多方面におよぶとしても、某本的には“仕事をこなせる”“仕事をとれる”“仕事をつくれる”この順序で人は育ちます。同様のことは産業界全体についてもいえます。この産業構造の時代変化は、私たちの予想よりかなり早いペースで進行しています。あらゆる分野で地球規模の競争や協調が現実に行われています。それを直接見ることができないので多くの人たちには実感がともなわないのです。地球規模の発想が求められるゆえんです。

家柄がいい、学歴がある、身分が高い、資産がある、社会的地位がある、顔形がよい、立派な家に住んでいる、大きい車に乗っている、これらは誰もが求めるもので、このこと自体人間の自然な感情といえます。それ自身何ら否定される性質のものではありません。
ところが、このようなステイタスシンボル的なものは、大方の場合、本人が意識しているほどには、ほかの人々にとっては魅力も関心もないものです。なるほどそれらは、羨望の対象としてはわかりやすいものです。しかし周囲の人たちに利益を与えるものでない限り、人はついてこないのです。
男の値打ちは、何ができるかで決まります。何をもっているかでもよいでしょう。いずれにしても、人に与える何物かがないことには、社会の役に立ちようがありません。そのことが現実を動かす力となるのです。何とか大学を出たとか、かんとか大学を出なかったではなく、その人が世のため、人のためになっているかどうかです。何のために地位や権限が与えられていてその立場にいるのか、立派な大人なら考えるまでもないことです。それが何であれ、社会のために生かされないものが残っていれば、それが負い目となって結局本人も苦しむことになるのです。