電脳経済学v3> g自分学> 1-4-2 天網恢恢疎にしてもらさず

正義。これほど重宝で曖昧な言葉はないように思われます。
芥川龍之介は『侏儒の言葉』の中で「正義は武器に似たものである。武器は金を出しさえすれば、敵にも味方にも買われるものである。古来『正義の敵』と云う名は砲弾のように投げかわされた。しかし修辞につりこまれなければ、どちらがほんとうの『正義の敵』だか、滅多に判然したためしはない」といっています。
戦争は“国家レベルでの正義”に決着をつけようとするものです。人類の歴史はまた戦争の歴史でもあります。正義の名において果しない殺りくがくり返されてきました。ここまでくると人類の英知もあてにならない感じです。
正義は国家や集団の数というより、人間の数ほどあります。人は誰もが自分が正しいと信じて、ことあるたびに相手を通じて、何とか確認したがっているように思われます。類似した態度をもっている人が集まることによって、自分は正しいという安心感を得ることができます。「類は類をもって集まる」とは“類は安心を求めて集まる”ことでもあります。
しかし集団の数だけ正義があることも困ったものです。“正しい”とは、誰にとっても、どの社会でも、いつの時代にも、あまねく受けいれられるべきものでしょう。このような普遍妥当性のある正義はいったいこの世に存在しないものでしょうか。

「善悪は考えることではない。信ずることだ」とする立場があります。この道は宗教に通じるものです。一方「正義とは行動する真理である」(ジョセフ・ジュベール、一九世紀フランスの思想家)という考え方もあります。両者ともに同じことをいっているように思われます。つまりこの世に正義が広く行われるという状態があるのではなく、そこには正しいことを求めている人間がいるだけである、とするものです。
正義の全貌がはっきり示されない限り行動できないとするのではなく、紆余曲折があるかも知れないけど、行動の過程を通して正義の世界に至ろうとする態度です。ゲーテはこのことに関して次のように述べています。

「行動する人間にとっては、正しいことを行うのが重要な問題である。正しいことが起こるかどうかについて、心を煩わすべきではない。」(『箴言と省察』)

ゲーテはまた次のようにもいっています。

「正義は広い領域を占めるが、心の善良さはより広い空間を占有する。」(『箴言と省察』)

確かに私たちは心の狭い自分の正義のとりこになっているふしがあります。正義を求める人間が、自分の利益しか考えることのできない身勝手な正義をふりかざしていれば、それは「自縄自縛」の結果を招くだけのことでしょう。正義とは現実に“あるもの”ではなく、理想として“求めるもの”とすれば、対話なき正義はあり得ないといえます。
ちなみに、私たちの行動の動機は好き嫌いによるもの、損得計算に基づくもの、正邪の判断によるものがあるとされています。この三者が統合された状態が望ましいのでしょうけど、なかなかいつもそうはいかないようです。
ここで正しいとは法律的のみならず、道徳的、宗教的範囲まで含めますと、私たちの生活は厳しいものとなります。私たちはその時は正しいつもりでいても、あとになって自らの非を悟ることはあるものです。詫びるべきは率直に詫び、赦すべきは気前よく赦す姿勢が求められます。
私たちは社会のもつ寛容性に甘えて、間違いをくり返している悲しい存在といえます。中国の『淮南子』に「年五十にして四十九年の非を知る」とあります。人間は自分たちが思っているほど賢いものではなさそうです。

「政治の要諦は社会正義の実現にある」とされます。しかし当節本気でこのようなことを演説して歩く政治家は“落選確実”と思われます。それは正義が行われていないということではなく、現代の錯綜した社会にあっては、正義とはかくかくしかじかという具合に簡単に定義できないという意味です。社会が高度に発達してくるにつれて、善悪も渾然一体となってくるようです。
私たちはここで、正義を崇高な理想としての正義と、日常的に実践されるべき正義にわける必要があります。“理想正義”は「自由」「平等」「博愛」があまねく行われた状態をさすとしましょう。日本国憲法前文の精神ともいえます。“実践正義”はそれに至る道筋を示すものです。色も味もついています。社会組織のあり方とかその運営方法が問われます。何だかんだいいながらも、私たちは結局この社会組織に組みこまれているのです。社会組織は私たちを強制したり、いやなこともしますけど、一方では、私たちがこの社会組織にしっかりと守られていることもまた事実なのです。つまり、現実の社会組織を良く知る必要があるのです。
ここで組織をシステムとみましょう。システムの用語を借りれば、社会とは時間遅れをともなった多重フィードホワード、フィードバックシステムとなります。フィードホワードとは、目標との関係から自身を位置づけることであり、フィードバックとは結果の評価から軌道修正をするものです。組織運営のための意志決定が、前後の双方向から照し出されるところがポイントになります。このことを世阿弥は「目前心後」とよび、宮本武蔵は「心意二つの心をみがき、観見二つの眼をとぎ」といっています。
先に理想正義としたものが目標に、実践正義としたものが評価にそれぞれ対応します。いわば、社会正義の両輪というより、前輪と後輪のような関係です。ところが、すべての社会に共通して受けいれられる目標は現実にはありません。あったとしてもあまりにも抽象的なものです。

東西の思想を自然観からみますと、西洋思想が自然と対峙することにより、科学として体系化されてきたのに対して、東洋思想は“自然との調和”を基調としています。

人間も自然の中で生きる一介の動物ですから、自然とよく調和する人間社会は繁栄し、反すれば衰亡に至ります。この“自然随順”の立場をとる東洋思想は、社会秩序維持のための倫理的色彩が濃いといえます。
人間もまた天地の間に生きる社会的動物にすぎないとすれば、社会の栄枯盛衰や人間の吉凶禍福は、天の支配をまぬがれることはできません。天とは、このように自然を神格化して、万物の主宰者として位置づけたものです。いわば東洋的な神といえるものです。「天網恢恢疎にしてもらさず」とは『老子』が自然の摂理に対して絶対的な信頼をいだいていた次の言葉によるものです。

「天の道は、争わずして善く勝ち、言わずして善く応え、召さずして善く来たり、繟然(せんぜん)として善く謀る。天網恢恢疎にして失わず。」(『老子』第七十三章)

「天の網はあらくておおまかのようであるけど、それは外見だけのことであって、実際は水ももらさぬほどに緻密に造られている」というものです。悪事をはたらいてみても捕えられる意味に用いられますけど、善事を行えばよい報いがあるという解釈もできます。
要は“社会を信頼しなさい”とするのが、老子の説く「無為自然」の立場です。
私たちは多くの人たちを通して、見えない糸によって社会と結ばれています。一方では社会の見えない網によってしっかりと守られているともいえます。このことを感じとって、社会に対する感謝の気持をもち続けたいものです。
『聖書』にも善悪に関する「網のたとえ話」があります。

「また、天の国は、海に投げ入れられていろいろのものを集める網に似ている。網がいっぱいになると、人々は岸に引きあげ、そして座って、良いものは選んで器に集め、悪いものは外に捨てる。世の終わりにもこれと同じようになる。天使たちが出て来て、正しい人の中に混っている悪人をえり出し、燃え盛るかまどに投げいれるであろう。そこには嘆きと歯ぎしりがある。」
(『マタイ福音書』十三章)