電脳経済学v3> g自分学> 1-4-3 すべてのことには時がある

禅に「啄同時」(そったくどうじ)という言葉があります。鶏には本来十個前後の卵を産むと、巣について卵を孵化する習性があります。それから二十一日目には雛がかえります。鶏の卵から雛がかえるときに、雛は卵の殻の内側からコツコツとつついて合図を送ります。これが「」です。同時に母鶏の方でも、外側から殻をつついて破ってあげます。これが「啄」です。このように両方から同時に殻をつつくことにより、殻が破れて雛がこの世に現れます。このたとえのように、機が熟して両者相応ずることを「啄同時」といいます。現代風にいえば“ぴったりしたタイミング”といったところでしょうか。
同じ相応じるたとえでも「啄同時」が瞬間的なタイミングをいいあらわしているのに対して、「阿吽(あうん)の呼吸」というのは、むしろリズム感を伝えるものです。「阿」は開口の始声、「吽」は閉口の終声を意味します。寺院山門の仁王像、向拝両柱の獅子、あるいは神社の狛犬などは、一方が口を開き、他方が口を閉じて一対の相をなしています。これは呼気と吸気に菩提心と涅槃境、あるいは万象の始めと終りをあてるという解釈がされています。これを現代風にいえば、ピッチャーの投球がキャッチャーのミットにバシリときまった、そのフィーリングと受けとってよいと思います。「阿吽の呼吸」とは息のあったバッテリーや長年連れ添った老夫婦に見られるように、ことをなす時に以心伝心をもって相互に微妙な調子や気持が通じ合うことをさします。

種をまいたからといって、すぐに刈り取りできるわけではありません。勉強したからといって、すぐに成績が上ることもありません。良い行いをしたからといって、すぐに良い報いがあるとは限りません。かといって、まかぬ種は生えないし、遊びほうけて成績がよくなるはずもないし、悪い行いをして良い報いがあろうはずもありません。
成果が実を結ぶためには時間がかかります。物事が熟成するとは、その内部で条件を整えていることをさします。そのための時間が要るのです。それを信じて、なすべきことをなすべき時にしていれば、時至りて道はおのずから開けていきます。あたかも自動ドアが開くようなものです。時が解決するとか時を得るとは、本人の側に立つた場合、決して手をこまねいて待ったり、タナボタ式の幸運に恵まれることをさすものではありません。怠たりなまけていても何とかなる場合もあります。しかし、それが永く続いたり、二度三度あることはありません。
この世には「相応の理」あるいは「作用反作用の法則」が働いていて、努力量と返報量は等価の関係にあります。ところが時間的な“ずれ”があるために気づかれないのです。

「畳の上の水練」という言葉があります。私たちが水泳を学ぼうとする時、水面をいくら眺めていても、本を読んでも、達人の話を聞いても、決して泳げるようにはなりません。水泳をするには水の中にはいることが絶対的な条件なのです。
人間の体は、本来水の中で浮くようにできています。しかし、泳ぎを知らない人は、水に対する恐怖のために、膝ほどの水深のところでさえ溺れるのです。無知に由来する恐怖のために、信じられないことが現実におきています。何事もまずやってみることです。
ことを始めるに際し、それが正しいか正しくないかについての詮索は、あまりすべき問題ではないように思われます。かりに、私たちがそのようなことを一生涯考え続けたとしても、何の答も返ってこないでしょう。人間は間違いを通して、何が正しいかを悟るという悲しい存在です。このことを素直に認める気持になれば、私たちは無用な苦しみから解放されるとともに、勇気をもって行動にかかることができます。
私たちが社会生活を営むに際して、まったく過ちを犯すまいと思えば、それは萎縮したものとなってしまいます。幸にして社会は思っているより寛大にできています。そのことは、人が自分の過ちになかなか気づきにくい方に作用する反面、人が大きく成長する機会を与えてくれているともいえます。私たちはむしろ後者を選びたいと思います。
失敗を恐れて憶病になるより、自身で失敗を受けいれておおどかに息をつく道をへて、社会の寛大さに対する恩義はあとでゆっくり大きく返していく。現在の日本は、このような態度を受けとめる程度に、成熟した社会であるように思われます。
泳げない人は泳ぎを語る資格はありません。仕事のできない人は仕事を語ってはいけないのです。もし語りたいなら、人並み以上に仕事をやってからにすればよいのです。その時になれば、みずからは何も語らなくても人が聞きにくるようになっています。さらにその時は「知るものは語らず、語るものは知らず」ということの意味がわかってきます。泳ぎも、仕事も、人生も、そのようなものです。
現代管理社会ではあらゆる分野で効率性やスピードが要求されています。しかし、考えようではそのような時代だからこそ、ゆったりとした人間が求められているのです。全員一丸となって同じ方向に進むのは、気持の良いものではあっても、危険が大きく次の手も打てません。経験的に、あらゆる物事は七割から八割の力を出している状態が、結局は最も「効率的」なのです。その範囲で緩急自在にローテイションが運用できれば理想的な姿といえます。

古来、数多くの時間論が展開されています。時間は常識的であり、かつ哲学的でもあるために捉えにくい概念といえます。ニュートンはこの世界で時間と空間は絶対的な存在だと考えて、その中で物理現象を説明しました。ニュートン時間とは天体の運行のように正確な絶対時間をさすものです。これに対して、ベルグソンは時間を人間的な面から位置づけました。楽しい時間は早く、苦しい時間は遅く感じられます。ベルグソン時間とは人間の感情面からみた時間です。
日本では鎌倉初期の禅僧で曹洞宗の開祖道元はその著『正法眼蔵』(しょうぼうげんぞう)の中で「松も時なり、竹も時なり。時は飛去(ひこ)するとのみ解会(げえ)すべからず」「尽界にあらゆる尽有は、つらなりながら時々なり。有時なるによりて吾(ご)有時なり」としています。これは仏教的時間論であるとともに世界観でもあります。尽界とは世界、尽有とは存在です。
「一期一会」(いちごいちえ)とは、茶会の心得から“生涯にただ一度まみえる”ことを表わした言葉です。茶道の精神は主人と客が社会的身分や立場を超えて、同室に会し、真心(いきしん)とよばれる澄みきった心をもって、万物が一体となった幽玄の世界にしばし遊ぶことにあります。これがいわゆる、わび、さびの世界です。
その瞬間が二度と再び帰ってこないものである以上、瞬間瞬間がいとおしく感じられなくてはなりません。“時を惜しむ”気持は、そのまま人間の尊厳性に目覚めることでもあります。時とはまさしく命にほかなりません。時は何物にもかえがたいものです。
その人がその時になすべきことはただ一つであり、しかもそれは前もってすでに定められているように思われます。私たちがこのことに気づくならば、人生に行きづまりとか不幸というものは一切ないはずです。
このように「一期一会」とはこの世界における歴史の一回性を強調した言葉です。それはまた瞬間を通して、万物の非同一性を悟るという仏教の根本思想を説くものです。ここにいう万物の非同一性とは価値にほかなりません。