電脳経済学v3> g自分学> 1-4-4 天命を知るとは 《一部追加:2006/06/17:2006/08/03》

人生の意義は自己実現にあります。この過程で環境との戦いは避けられません。環境が“順”に働けば人は幸を感じます。ところが問題は“逆”に作用する場合の対応にあります。人生には生きている限り決定的な敗北はありません。それが何であれ、環境はその人の最終的な勝利に向けての“素材”を提供しているにすぎないものです。
人間を含めて、生物は“環境に適応する”ことによって生きています。ところが、人間が生物一般と異なる点は、大脳新皮質とよばれる理性の座が、ずば抜けて大きいことです。この理性の働きによって人間は概念思考ができるのです。概念思考とは過去の経験によって新しい環境を類推する能力をさします。経験とはまた記憶にほかなりません。人間はこの過去の記憶と照合しながら新しい環境に適応しているのです。
適応とはしばしば順応の意味に用いられています。しかし、この順応に加えて創造ができる点において、人間の適応は動物の適応とは本質的に異なっています。
環境に適応する場合には基準が必要です。それを未来つまり理想からもってくる人は創造タイプ、過去つまり前例から引用する人は順応タイプといえます。どの世界にも改革推進派と現状維持派がいます。これはどちらが良いとか悪いということではありません。現実世界はこの進歩的な面と保守的な面のせめぎ合いの上に成り立っています。それをさばくのは“情況”という行司役です。
環境には人間の生存に好ましい面と、そうでない面が併存しています。環境と戦うとはこの好ましくない面を好ましくする過程をさしているものです。この環境の制約から自由になることが価値を生むことにほかなりません。あらゆる方面での人間活動は、まずこの制約を受けとめ、次に手なづけることにあります。
環境による制約条件と自身の関係を理解するために、パイプに働く力を例にあげましょう。パイプには、その外側から土圧や荷重といった諸々の「外圧」が作用しています。一方、パイプの内側からは外圧に対抗するにたる「内圧」が働いている必要があります。あるいはパイプ自体に外圧を受けとめることのできる強度が求められます。パイプ自体の構造は内圧と外圧の関係によって定まります。
環境からの外圧は自己を押しつぶす方向に働いています。一方、それに対抗して押し返す力が内部で働きます。このことは、のちに述べる「運命」と「使命」の関係に相当するものです。運命は外から内へ、使命は内から外への働きかけです。「天命」を知るとは両者の拮抗関係を理解することにほかなりません。

「遮断機は通行止めをするのではなく、安全に人を通らせるためにある」という外国の諺があります。ともすれば、私たちは運命の制約を否定的に受けとりがちです。人間は自分の目標以外には、気がまわらないという視野狭窄なところがあります。前へ前へ進みたい気持も、仕事熱心なところもわかるとしても、やはりそれは身勝手に映るものです。一歩退くとか、一段と高い立場から見る余裕が欲しいところです。物事がそうならないのは、すべてそれなりの理由があってのことですから、周囲にも気を配る必要があります。
人間の能力差は、世間でいわれているほど大きいものではなさそうです。私たちがある集団に属していることは、大筋で“似た者同士”なるが故です。「どんぐりの背くらべ」とはこれを揶揄したものです。その集団に属している限り、同類の評価が与えられます。ところが、現実には永い人生行路の末には、いかんともしがたい差がついてしまいます。それはひとえに、その人が見えないところでどのような時間を送っていたかによるものです。
世間ではこれを学歴の差とか、そういういい方で片づけてしまいます。しかし、これは“ひがみ”というものです。“私には学歴がないからできません”とするか“学歴がなくてもできます”とするかです。何事も最初はわずかの違いです。ところが、心のレバーポジションが前進かバックかによって、その結果は天地の開きとなって現われます。“人間には羽がないから空は飛べない”という発想からは、飛行機が空を飛んでいる現実を説明することはできません。できない理由をあげるより、できる方法を考える態度が求められます。
人生において、順境では差のつきようがありません。ところが逆境では、くさるか次の出番に備えるかの差は倍半分どころではありません。人間にはうぬぼれがありますから、誰もが自分は正当に評価されていないと思っています。つまり多くの人が、自分は不遇をかこっていると思っているのです。
自分はこの程度の人間である。これ以上でもなく、これ以下でもないとして、現実を一旦受けいれる必要があります。さもなくば、すべてが妄想となります。迷いとは妄想の世界をさまよっている状態のことです。現実を受けいれるとは、当り前の状態に戻るだけのことです。体を動かすとか、自然に接するとかの方法で、頭を休ませることです。
人間も植物も、上に伸びていく習性があります。向上心とでもいうべきものです。その場合、幹を支える根がしっかりしていなくてはなりません。根は横にも下にも伸びます。植物が冬に根を張るように、人間もまた不遇の折に根を伸ばしておく必要があります。物事は見えないところが大切です。見える部分、つまり結果だけに心を奪われてはなりません。

世に認められないのも、それなりに気楽で、結構楽しいものです。
私たちは思い通りにならないとき、ひどい目にあったという受けとり方をします。しかし、得難い経験をつませていただいたという解釈も成り立つはずです。修羅場を切り抜けてきた人は、独得の光彩を放っているものです。男の魅力は修羅場の場数によって定まります。その顔には恐れの影がないのです。
真打ちは最後の座を務めるものだ、とゆっくりと構えていれば、どこからともなく伯楽が現われて、道が開けてくるというのが、この世の不思議なところです。私たちは自身では気づかずにいますけど、つねに多くの眼で見られているのです。世の中には目利の人がいて、才能が埋れるということはないのです。ただ、物事にはタイミングがありますから、その時がめぐってこない間は、誰もどうしようもないということです。時が人を求めているのであって、人が時を求めてみても、命を縮めるのがオチというものです。ところが、多くの人は待ちきれず、成功の一歩手前で諦めてしまっているように思われます。
ある行動が真に意味をもつのは、その行動が完結したのちにおいてです。千里の道も一歩からといいます。その一歩をふみ出すには勇気と決断が求められます。それを続けるには忍耐と根気が必要です。しかし、それよりさらに大切なことは、やり遂げることです。寄せとか詰といわれる、最後のしめくくりが最も肝心です。どんなに長いトンネルでも、最後の一メートルが貫通しないことには、トンネルとして何の役にも立たないことは明らかです。
ひねくれたり、諦めたらそれまでです。それは悪魔に試されて、はまった状態といえます。人生の要諦は“しぶとさ”“したたかさ”にあります。「志ある者は、事ついに成る」(『十八史略』東漢光武帝)といいます。信じて進む者には、鬼神もついに道を譲るのです。

「桐一葉落ちて天下の秋を知る」
俳句の世界では“葉−木−森−山−天地−天下”の類推が一瞬のうちになされます。この「一を聞いて十を知る」ことができるのは、頭の中にモデルができ上っているからです。“桐一葉”と“天下の秋”の間を融通無礙に往来できる自在心が、奥ゆかしくも頼もしいのです。
私たちが社会生活を営むに際して、この現実世界をくまなく経験することはできません。したがって、この「比喩」と「逆説」に関する感覚がとりわけ貴重な役割を果します。部分から全体を類推する比喩と、それを反転する逆説に関する感覚が、まさに概念思考の精華といえるものです。
この比喩感覚は、直観的理解力に相当し、逆説とは信じる力を意味します。両者ともに宗教の世界と深くかかわっています。「急がば廻れ」「負けるが勝」「損して得とれ」このようなことは科学的に説明も、証明もできません。ところが、現実の世界ではこれらが決定的な意味をもちます。科学や知識は現実のごく一部分にすぎないのです。
それがどのような分野であれ、未知の領域に切りこんでいく際には、既存の知識やその体系はしばしば障害となります。極限状態において最後に頼りになるものは“生命感覚”とでもいうべきものです。動機が純粋であれば、人間の感覚は確実さにおいて判断をしのぐものがあります。それは自身の直観に対する信頼であり、自分を信じる心といえます。信じるとはこの世で最も壮烈な自分との戦いなのです。

人生八十年の時代を迎えています。寿命は伸びることはあって縮む気配はありません。私たちはこのような時代にあって、これまでの人生五十年を前提として成り立っている、社会の制度や生活全般について再検討をする必要がありそうです。このことの社会的意味あいは、まずこれまでの登りつめる人生から、登って降りる人生に考え方を切りかえることです。
登り降りが山登りです。登りはエネルギーが、降りはテクニックが問われます。この見えない折返し点は、個人差が大きいとはいえ、四十歳から四十五歳のあたりにあるものと思われます。厄年とは、人生上の流れが大きく変る曲り角をさすものです。古来、自らの年齢的な衰えを、冷静に認めることは困難なこととされています。気づかないのではなく、気づきたくないのです。
前半生にまいた種が、後半生に刈りとられます。人生上の簡単なこの原理を、いつの時点で気づくかです。人生経験の重みを知ることです。先に述べたリンカーンの言葉「四十すぎた顔はみな自分自身の責任である」にいう顔とは、その人の人生を象徴的に表わしているものです。つまり、四十すぎた人生はみな自分自身の責任なのです。人生の後半生はその人なりの人生が展開されます。そこに一般論は成立せず、結果があるだけです。となるとそれ以前に、どのような人生を送ったかとなります。自分の未来に希望をもち、社会に対して責任をとろうとする若者にとって、このことは肝に銘ずべきことです。

世の中に二通りの人がいるように思われます。決定論者と運命論者がそれです。決定論者は使命感に燃えています。世の中“努力が大切”ということで、目標をたてて計画通りに、キチンキチンとやらないと気がすみません。自分がいないと世の中が動かないと信じている幸な人たちです。一方、運命論者は世の中はなるようにしかならないから“諦めが肝心”だと思っています。社会に順応することが美徳としながらも、野心もまたチラホラしています。「使命」か「運命」かではなく、誰もがこの両者が混じっており、また年齢に応じて考え方も変っていきます。
『論語』の次の言葉はよく知られています。

「吾れ十有五にして学に志し、三十にして立ち、四十にして惑わず、五十にして天命を知り、六十にして耳順(したが)う。七十にして心の欲する所に従いて矩(のり)を踰(こ)えず。」
《注記:74歳で世を去った孔子が晩年に自身の人生をかえりみて残した言葉とされる。発達心理学的には、志学:15歳、而立:30歳、不惑:40歳、知名:50歳、耳順:60歳、従心:70歳となる。〈七十而従心所欲不踰矩〉について補足すれば、矩はのっとるべき規準で「法」と同義、踰えずはおさまるを意味する。心の赴くままに行動しても人の道から外れることはない。つまり、自他の幸福が渾然一体化した絶対自由の境地と解釈できる。》

ここにいう「天命」とは「使命」と「運命」が統合された状態をさすものと思われます。それまで運命と思っていたことが、実は天の采配によって絶妙に仕組まれた演出であったことに気づいてくるのです。
五十で天命を知ってみても遅すぎるとすれば、私たちの人生態度は“超作”(ちょうさく)であるべきです。超作とは結果を期待しないで物事にうちこむ態度です。さらに「斉尽きて魯現る」という言葉があります。物事にはきわまりがないたとえです。