電脳経済学v3> g自分学> 2-1-2 希望があるから耐えられる
水は私たちの生活にとって欠かすことができません。ところで、この水には味があるでしょうか。私たちはその土地に住むことによって、その水に慣れています。切ない頃から慣れ親しんでいるため、水には味がないと思っています。しかし実際には、一見同じように見える水も、その場所その時によって微妙に味が異なっています。
ところが、水には本来味はないのです。水は無色透明無味無嗅です。水に味がないからこそ色々の味を乗せることができるのです。水は酒にも、汁にも、毒にも、薬にもなります。天然水の場合でも、その近傍の鉱物や植物の成分を自身の中に溶かしこんだり、逆に吐き出したりすることによって、水はその土地特有の味を保っています。水は万物をいれるとともに、自身もまた万物の中にはいっていくことができるのです。
このことから“水には本来味はないけど現実の水には味がないということはない”といえます。人生に意味はあるでしょうか。この問いかけに対して、水と同じようなことがいえると思われます。つまり、人生には本来意味はないけど、現実の人生には意味がないということはない、と思われますがいかがなものでしょうか。
まれに人生に意味がないとか、生きていても仕方ないといって、死に急ぐ人がいます。意味がないのではなくて、意味を見つけることができなかったのでしょう。自殺なんて自分と関係ないと多くの人が思います。ところが後に述べるセネカの言葉を待つまでもなく、病気、げが、事故はその深層心理において緩慢な自殺ないし局部的自殺行為といえるものです。人間は意識している自分だけが自分ではありません。むしろ、大部分の自分は意識されていないのです。人間には死の本能もまた働いているのです。
自殺の原因は、人生観の決定的挫折による絶望感であるとされています。人は客観的情勢で自殺するのではありません。それは自殺の動機かもしれませんけど、その原因は人生観が現実に適合していないことによるものです。人生観が正しいと信じている間は、人はどのような苦難にも耐えることができ、その逆境を乗り越えていくものです。
永い人生行路の途中で、物事に行きづまったり、ショックを受けた時には、人は誰でも人生の意味や目的を見失なって、色々考えたり悩んだりします。しかし、人生には元来行きづまりというものはないのです。それは行きづまったと思う心があるだけです。その心とは社会的立場だとか、人に迷惑をかけるとか、恥序に堪えられないとか、そのようなことだと思われます。正常な感覚の人であれば、自殺してみても、そのようなものから解放されるどころか、むしろ逆の作用をするという判断をします。ところが、本人が生き恥をさらすほどなら、死んだ方がましだと信じて疑わない人がいるとすれば、それ以上のことはいえません。つまり、価値の順序が生命より上位のものがあれば、そのために死ぬのは本望となります。たとえば殉教者などがその立場をとります。
しかし、常識的な市民の立場によれば、次のようになります。つまり、人間が生きているから価値について考え、かつ価値を生み出すことができるのです。それが何であれ、この世にまず価値があって、そのためにその人の生命があるとはならないと思われます。あくまで人間が主人で、価値はその人の下部となるべきです。意味とは価値に対する解釈が感覚的に表現されたものと思われます。
このことから、人生に意味を与えるために人生があるといえます。希望とは、将来に意味を与えることです。
人間は精巧な記憶装置にたとえることができます。人は親や周囲の人たちが、自分にしてくれたことをどこかに覚えていて、その通りのことを、自分の子供や社会に対してするものです。大切に育てられた人は、他人を大切にします。報恩とはこのことにほかなりません。一方、粗末に扱われたり、過度に甘やかされた子は復讐してきます。しかし、人間の偉大さが称えられるのは自分がされた以上にして返すことができるからです。社会発展の鍵はまさにここにあるといえます。
『聖書』に「持っている人は、さらに与えられて豊かになるが、持たない人は、持っているものまでも取りあげられる。」(『マタイ福音書』十三章)というたとえ話があります。このことは一見、社会正義に反しているように思われます。しかし、事実として物事にはそのような性質があります。このことはお金のみならず、情報、真理、知恵についてもいえることです。優劣の差は開く一方というのが世の姿のようです。
私たちが物事に矛盾を感じたり、逆説的なことが信じられないのは、未来に対する予知能力と、社会の広がりに対する感覚が、ともに足りないことによります。未来を信じることのできる人は、与えることによってますます与えられ、現在を信じる人は、与えることによって失います。信じるとは、未来の未知なるものに対する態度にほかなりません。
自分の人生を生きることは、そう容易なことではありません。誰の場合でも、人生の意味とか目的がそうやすやすと見つかるものではありません。しかし、当面の目標をもつことはできると思われます。それを希望とよぶことができます。人はこの希望をつないでいくことによって、本来の人生目的に気づいてくることができるのです。
山に登る人にとって、山の頂上がいつも見えている必要はありません。頂上のイメージがあればそれで十分です。大切なことは、瞬間瞬間における一歩一歩であります。それが必ず頂上に結びついていると信じることです。このように、希望と信じることは表裏一体の関係にあります。そこには、未来に賭け未来に責任をとろうとする決意がうかがえます。人間は希望をもつことによって、別人のように強くなります。
「女は弱し、されど母は強し」の言葉にあるように、責任感がその人を強くするのです。責任感によって生命力が湧いてくるのです。希望は単なる昼の夢ではありません。責任感によって裏うちされた希望は、自己実現へ向けての執念となって、自身の分身として生命をもってきます。現実の世界が厳しければ厳しいほど、いやます底力がこみあげてくるという不思議な性質があるのです。
人間は希望があればどんなことにも耐えられるのです。