電脳経済学v3> g自分学> 2-2 自分を改めて問う

電脳経済学v3> g自分学> 2-2-1 汝自身を知れ

古代ギリシャにおける自然哲学の祖、タレスは「万物の根元は水である」との言葉で知られています。タレスにまつわる次の逸話があります。
天文学者であり、哲学者でもあったタレスは、夜空に輝く星を眺めながら思索にふけることが多く、ある夜、星を見つめながら歩いていたために、井戸に落ちてしまいました。それを見た女の召使いが、からかっていいました。「タレス様は天体のことはよくご存じですけど、地上のことはまるでわかっていないのですネ」
この時タレスが何と答えたか、そこまでは伝わっていませんけど、タレスがもし禅にある「脚下照顧」の教えを知っていれば、井戸に落ちることもなかったと思われます。もっとも、そうなると天文観測の方にさしつかえが生じたかも知れません。
貧乏に甘んじていたタレスを、ある者が嘲笑したので、彼は翌年のオリーブの豊作を予期して、わずかの金で町中の圧搾機を借り集め、収穫時に高く貸しつけて大儲けをしました。「哲学者だってその気になればすぐ儲けられるのサ。だが哲学者の野心は金儲け以外にあるのだ」とたんかをきったそうです。
タレスはバビロニアの日食表をもとに、紀元前五八五年五月二十八日の日食を予言したほどでしたから、その方の知識も相当なものがあったようです。タレスが何によって生計をたてていたかは明らかでないのですけど、その気になって金儲けをしなかったことだけは確かです。
「汝自身を知れ」は、ソクラテスの言葉とされています。ところが、その出所は古代ギリシャのデルフォイにあった、アポロン神殿の扉に刻みこまれていたものです。この文句をソクラテスが愛誦したために、ソクラテスの言葉となってしまったものです。また別の説によると、これはタレスが用いていた句であるともされています。
孫子の言葉にも「彼を知り、己れを知るものは百戦危うからず」とあります。“己を知れ”ということに関しては、古今東西あらゆる人があらゆるいい方で、これを強調しています。ところがいい言葉というのは、何をいっているのかよくわからない面があることもまた事実です。
この「汝自身を知れ」についても色々な意味があり、解釈はわかれています。たとえば「身のほどを知れ」というのと「自分の価値に気づけ」というのでは丸反対にとれます。ソクラテスが使った意味は「汝がいかに無知であるかを自覚せよ」であるとされています。自身の愚かさに気づかない者が愚か者であるということでしょう。

私たちが最も遠くを観察することができるものは、夜空に輝く星をおいてはありません。天文学は東洋でも西洋でも大昔から発達していました。私たちからみて、星の世界は最も遠い距離にありますから、最も客観的な対象体となり得るものです。自然科学に関する学問の歴史をたどってみますと、天文学の次に物理学、生物学、心理学、生命科学という具合に、段々と人間自身に接近してきています。
一方、宗教の分野では早くから人間自身の内面を見つめてきました。
禅寺の玄関によく「脚下照顧」の文字を見ることがあります。そのままの意味は“足もとをよく見ろ”ということで、履物をそろえて脱ぐようにというよびかけです。ところがこれはまた「照顧脚下」とも書かれて、むしろ自身に対する戒めの言葉として用いられます。自分自身の足もとを見据えることによって、厳しく自分を律していくようにという、自己返照をうながした言葉です。脚下とは足もとというより自分自身をさすものです。
「灯台下暗し」といいますけど、灯台の中に至っては、真っ暗同然だというわけです。人間の眼は、構造的に外界の、しかも前方を見るようにできています。したがって、人間の内界や過去は、自身の心で見るほかありません。眼は心の窓といわれるように、両者が密接に関連していることは確かとしても、それ以上は定かではありません。
このようなことから、科学が自然の研究ばかりしてきて、人間自身の研究をしていないという批判がされています。
ここで私たちは科学の本質について確認しておく必要があります。科学は「客観性」「計量性」「法則性」「普遍性」を根拠として「対象」(オブジェクト)に関する真理を追求するものです。科学はそれ自体無目的であり、この真理や事実に関する“データ”を整備するものです。それをどう用いるかは、価値に関する別の体系に属するとされています。
一方、人間自身はその“データ”に価値を与えるとともに、その価値を受取る「主体」(サブジェクト)の立場にあります。人間はこの価値づけの過程で、データに対して「主観的」「感覚的」「情況的」「個別的」に評価を与える側に立つ者です。その際、評価基準となるものが、その人の人生観なり世界観にほかなりません。自然がデータなら、人間はプログラムに相当し、相互に対応する関係にあります。人間の意識はプログラムのプログラムにあたるといえます。ちなみに情報とは、両者を結ぶさらに包括的な概念であり、物質・エネルギーと並んで時間的な“流れ”に重きが置かれたものです。情報は最終的に人間の意識に“流れ”こむことによって、価値の“素材”を提供しているといえます。
昨今の情報洪水とは、実はこのデータ洪水をさすもので、それに圧倒されて、プログラムの方が処理できない状態といえます。人間の本来性が脅かされている情況といえます。物心二分の立場によるデカルト的世界観から、「物心一如」ないし「主客合一」に根ざした“自他の間に境目を入れない”統一的世界観への道が期待されるところです。なお主体とは、デカルト的には自我意識をさします。
美術館で絵画を鑑賞する場合、私たちはあまり遠くに立てば額縁だけが眼にはいり、あまり近くに寄れば、絵の具を見ることになってしまいます。対象との位置関係から、そこにはおのずと適当な距離というものがあります。科学の人間研究は“絵の具的”であり、宗教の態度は“額縁的”のようです。現代人はいくらか“絵の具”寄りといえそうです。人間が自身のまつげを見ることができないように、既存科学のパラダイムには限界があるように思われます。極微の世界における観測主体と観測対象との相互干渉現象にみられるように、自我意識が科学の純粋客観性にゆらぎを与えているのです。

私たちは確かな眼を養う必要があります。そのために、私たちは自ら自己を確認するとともに、他者からも確認される必要があります。自己を、他者という鏡に写し出して見るゆえんであります。しかし、その前の自我が発達する段階では、むしろ“自己を他者という鏡から写しとる”こととなります。
この段階で愛情不足、あるいは愛情過多によって、自己の中に矛盾したものを一旦とりこんでしまうと、その後においては、歪んだ眼でこの世界を見ることとなります。これが固定化されれば偏見となります。偏見があると異質なものを拒絶する意識が強く働くとともに、情況の変化にも気づきにくくなります。『聖書』に次のたとえがあります。

「兄弟の目にあるおがくずは見えるのに、なぜ、自分の目にある丸太に気づかないのか。自分の目に丸太があるのに、兄弟に向かって、『あなたの目からおがくずを取らせてくれ』とどうして言えるだろうか。偽善者、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおがくずを取ることもできるであろう。」 (『マタイ福音書』七章)

人間は何の意味も理由もなく、この宇宙の一点にポツンと現れたものではありません。遠い過去から現在に至るまでの時間軸と、宇宙の彼方から身近かな周辺に及ぶ広がりの面との交点に、私たちは位置を占めています。人間がこの宇宙において内在的であることは、意識において全宇宙と全過去を自身の内なる一点に収めることができ、かつその中心から、外界という未来に向けて何らかの意味ある働きかけができるものと思われます。
自分とは一体どのような存在でしょうか。私たちは清く静かた心をもって自分の内部を点検する必要があります。人間はつねに許し許され、詫び詫びられる関係から再出発する必要があります。この自己検証なしに、自己の価値に目覚めることはできません。自分が価値ある存在であることは、他者のために役立ちうる存在であることです。自身の中にもっているものを、他者のために活用することをおいて、人間にはそれ自体何の価値もありません。この相手を内側から生かす精神が愛です。愛なき人生には意味がありません。この愛のみが執着してやまない自我を解き放つことができるのです。
私たちは自分の人生を生きるよりほかに道はありません。リンカーンのようにも、ガンジーのようにも、アインシュタインのようにもなれないし、なる必要もありません。自分は自分になればそれで良いのです。愛に目覚めた自分になれば良いのです。自分はこの天地の間で最も尊い者です。自分に相当する人はこれまでもいなかったし、これから現れることもありません。誰にとっても、自分とは何物にもかけがえのない存在です。このことが、すべての問題の出発点であるとともに、到達点でもあります。最も近くて最も遠い者、それが自分というものの実体のように思われます。