電脳経済学v3> g自分学> 2-2-4 すべての原因は自分にある

日本人は狭い島国にひしめきあって暮しています。限られた空間を大きく使うには、スピードを上げるほかありません。あらゆる「日本的」なものは、この風土的な背景に根ざしています。箱庭のような国土の中で、盆栽的な生活を営んでいますから、短歌とか俳句のようなコンパクトな世界では、日本人の才能は遺憾なく発揮されます。日本人は比喩的な感覚においては抜群といえます。この比喩感覚は模倣の段階では威力がありました。しかし、創造の時代を迎えている今日、求められるのはむしろ逆説的な発想といえます。
逆説的発想とは、両面観を通して全体観に目覚めることといえます。これまでのように素直なだけでは、これからの困難な時代に対処することはできません。逆説的発想によってちょっとひねってみる感覚が問われてきます。
人生八十年時代を迎えています。これまでの登りつめる片道旅行的考え方から、登り降りが山登りの、往復旅行型に発想を転換する必要があります。人生の折返し点である四十歳をすぎる頃から、この両面観を身につけることです。逆説的とは表も裏もわかることですから、柔軟な発想が求められます。逆説とは人の裏をかくことではありません。それは単なるすね者です。
坂を降りるのに、さしてエネルギーはいりません。聡明さといくらかの注意力があれば十分です。それはこの現実世界に巧妙に織りこまれている“虚構性”に気づきながらも、それを何ら咎めだてしない、いわば枯れた人生態度とでもいうべきものです。
宗教は基本的に、比喩と逆説をもって真理を説きます。この逆説を両面観ないし全体観とすれば、比喩は運動観に相当するといえます。これらを体得するために、宗教では何よりもまず“信ぜよ”と説くのです。

ここで、その“信じる”ということについて考えてみましょう。婚約者の間では、必ずといって良いほど“あなたを愛します”“あなたを信じます”という神聖な言葉がかわされます。ところが、銀婚式、金婚式を迎えるような人たちがこのような言葉をかわすでしょうか。もう残りも少ないことだし、どうでも良いことだというような不謹慎な態度からかわさないわけではありません。それはお互いに知り尽くしているからです。つまり信じるとは知るまでの間のつなぎだったのです。愛するも同じです。
哲学のフィロソフィは“知を愛する”を意味しますから、本来なら“愛知学”となるべきところです。日本が生んだ偉大な哲学者西田幾太郎博士の言葉に「ものを知るには、これを愛さなければならない。ものを愛するにはこれを知らなければならない」とあります。この間の機微を伝える言葉です。
宗教についても同様のことがいえます。真理に目覚めるには、この比喩や逆説を信じる態度が必要です。しかし、いったん知ってしまえば、次はむしろ理解を深める方向に進むべきでしょう。これまで「自信」について肯定的に見てきました。しかし、“逆説的”に見れば、自信もあやふやなところがあります。たとえば、「自信家」とはむしろ冷笑的な含みがあります。同様に信念の人といえば、これも椰楡気味になってきます。
信念、理想、努力、これらは美徳で着飾った“美辞麗句”群といえます。思いこみが強くて、心静かではありません。この美辞麗句群を注意深く観察すると、何物かを求めている私と、その求めている対象との間に、大きい“へだたり”があるのです。“考えている私”と“私の考え”が異なるのは、現在の自分を嫌っているからです。私たちが信念とか理想とよんでいるものの裏には、実は現実の自分に対する「自己嫌悪」があり、それから逃れたい心理が働いているといえます。
高い理想をかかげている人ほど、本当は激しく自分を憎んでいるのです。しかし、誰しも本気で自分を憎みたくありませんから、周囲の人を憎みます。それが負い目となって自分にはね返り、恐れとなります。「対人恐怖」症状は、そのような人が他者と接触する際に現れるものです。これははた迷惑な話というべきです。
極端な考え方をもった人や過激な言動に走る人はどこにもいるものです。そのような人たちに共通していることは、高い理想とほど遠い、現実のふ甲斐ない自分の姿に失望しながらも、それを認めたくない人たちです。自分の考えは絶対に正しいという前提に立ち、周囲や社会はつねに自分に対する理解者でないと面白くありません。さもなくば、相手を責めたてます。このような形で周囲や社会に何かを訴え続けているのです。
自分を理解して欲しい、認めてもらいたいとは、つまり自信がないことに通じます。このように自信家とは、本当は自信喪失家なのです。自分というものは、人に理解される前に自分が理解すべきものです。これが愛に欠けている人問の姿にほかなりません。
それは、これまで自分が表面的に解釈を与えてきた世界に、模倣と迎合をもって肯定的に接してきた結果によるものです。この世界の本質的理解に至るには、自身による独創をもって、否定的態度で現実に接近する必要があります。否定的とは、物事に反対するとか、消極的態度をさすものではありません。それは大局的見地から批判的、逆説的に物事を捉えて行く態度をさすものです。
逆説とは「急かば廻れ」の考え方です。頂上が見えていれば、一直線に進めばそこに早く到達できそうです。ところが実際は、一見廻り道のように思われる曲りくねった道路を選んだ方が、結局は早く、しかも確実に頂上に到達することができます。私たちはこのことを経験的にすでに知っています。未経験の分野についても、自身の経験と他人の経験を組み合わせることによって類推することができます。経験とはこの比喩と逆説についての理解にほかなりません。このことによって、私たちは隠された真理をうかがい知ることができるのです。

このように、私たちの住んでいるこの世界を一つ一つ切り崩して行くと、私たちは錯覚の世界に生きていることに気づいてきます。それは“時間という錯覚”“空間という錯覚”“自我という錯覚”をさします。この世が浮世あるいは仮相の世界とよばれているのは、このことによるものです。先に述べた現実のもつ“虚構性”あるいは人間のもつ“仮面性”もまた錯覚のなせる業といえるものです。
時間、空間、自我といったものは、実は人間が便宜上与えた名称にすぎないものであって、本来実在しないもの、という見方もできるのです。
もしこのことに気づかないとすれば、その人はせっかくこの世に生れながらも、自作自演の田舎芝居の中で、一生涯まじめくさったピエロの役回りを演じ続けたあげく、くたびれ果てて空しく舞台から消えていくことになりかねません。せっかくこの世に生をうけたにもかかわらず、人生を享受する術も知らず、人間としての喜びを感じることもなく、空しく世を去ることは淋しい限りです。
人間は自分の考えが正しいと思ったその瞬間から、もう間違いを犯しています。私たちは普遍的な正義を求める前に、一つの愛に目覚めるべきです。そのためには自分自身の正体を良く見極めることによって、自身の不完全さをあるがままに受容する態度が求められます。この不完全さを癒すものが愛であり、正義を振りかざす時、この不完全さの亀裂もまた深まります。
それがどのようなことであれ、自分に関するすべての原因は自分にあります。その原因を外に求めようとする限り、不必要な混乱は避けられません。それはあたかも自分の足元のまわりに、せっせと不幸の穴を掘っているようなものです。人を変えようとするのは愚かな思いです。自分が変ればそれで良いのです。自分が変れば、人が変るのです。自分が変らなければ、人もまた変りません。自分が変らない限りこの世は苦しみの谷であり、この地球上のどこにも逃げ場はありません。この自分を変える力は自分にしかないのです。

ところが、自分で自分に打ち勝つことは至難の業といえます。原始仏教に「戦場において百万人の敵に勝つとも、唯一つの自己に克つ者こそ、実に不敗の勝利者である」との言葉があります。
私たち凡人は、百万人の敵に勝つ前に、大体において自分の方が敗れます。屈辱的な敗北が、自我の殻を打ち砕くには最も効果的といえます。自分が変るとはこの自我の殻を破ることであり、それは屈辱経験によらない限り不可能ともいえるものです。正確には、どのような気持をいだいて、この屈辱的敗北から立直るかが問われているといえます。真実の自分に目覚めた時、そこには真理と創造と愛と自由の世界が広がっています。人間は誰もが自分以外の人のために生きているのです。このことに気づくまで、人は苦しみ続けなくてはならないのです。