電脳経済学v3> g自分学> 2-3-1 誰もが二つの社会に住む
サラリーマンなら誰しも、一度は「課長」とよばれてみたいと思うのは自然な心情といえます。世の中の「課長」にもピンからキリまでありますけど、「カチョウ」にまつわるサラリーマン物語です。
ここに一人の「課長」になってもおかしくない人がいます。同期の人はすでに「課長」になって羽振りをきかせています。その上、後輩にも追い越されていく有様です。仕事はできるつもりだし、経歴も十分、評判も悪くない。どうしても合点がいきません。一思いに辞表を叩きつけて会社を辞めてやろうかと、何度か思いつめながらも、女房・子供をかかえた生活のことを思うとふみきれません。これまで我慢してきたのだからと自らなだめながら、悶々の日を送っていましたが、ついに思い余って、ある機会に人事当局の偉い人に恐る恐るそれとなく尋ねてみました。偉い人曰く「君だって、家に帰れば『カチョウ』じゃないかネー」
偉い人は「家長」の意味をこめて暗にさとしたのです。確かにその人は家庭に問題がありました。本人は家庭を犠牲にしてまで会社のために働いたつもりでした。ところが当局側の見方は“家庭の一家”を取り仕切っていけない者に“会社の一課”を任せるわけにはいかないということだったのです。本人は間もなくこのことを悟り、家庭をたて直し、めでたく「課長」にご昇進なされた、というのがこの物語のオチであります。
会社が社会の縮図なら、家庭もまた社会の縮図といえます。社会は基本的にこの職場と家庭の両翼から成り立っています。しかし、この両者の間には明らかに違いがありそうです。
十九世紀ドイツの社会哲学者テンニェス(テニエスともよばれる)は、社会生活の根本問題を分析して、その結果を『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト』としてあらわしました。ゲマインシャフトは「共同社会」、ゲゼルシャフトは「利益社会」と訳されています。
これは社会のもつ両面性を“対概念”として示したものです。「共同社会」とは家庭や同好会のように感情を共有する集団的な社会であり、「利益社会」とは国家や企業のように利益を目的とする組織的な社会をさすものです。この概念を理解するために、両者を対照させて列記すれば次のようになります。なおこれらは、必ずしも厳密な定義を与えるものではありません。イメージをつかむためのものです。
共同社会と利益社会の対概念
感情-理性 共感-利益 弛緩-緊張 安定-発展 地縁-他所 血縁-他人
親和-優越 女性-男性 母親-父親 家庭-会社 集団-組織 村落-都市
自治-統制 民族-国民 教会-政党 宗教-政治 消費-生産 生物-機械
植物-動物 誠実-打算 同質-異質 平等-支配 共有-私有 水平-垂直
芸術-科学 精神-物質 黙諾-契約 会話-文書 融和-対立 混沌-秩序
夜間-昼間 結合-分離 友愛-競争 余暇-職務 全体-部分 郷愁-闘争
農林業-商工業 一体感-違和感 性善説-性悪説 自然発生-人為設立
先に私たちは錯覚の世界に住んでいるとしました。現実社会に見られる虚構性は、人間のもつ仮面性によるものであり、その仮面性はまた自我の社会に対する態度にほかなりません。
この「自我」の状態によって、社会型を区分したものが共同社会と利益社会といえます。テンニェスはそれを「本質意志」と「選択意志」とよんでいます。「本質意志」とは自我が意識されない状態であり、「選択意志」とは自我意識が前面に押し出された状態をさすものと理解されます。“あるがままの自分”と“あるべき自分”といったところです。
社会はまた同心的な広がりをもちます。「空間」としての社会です。自分を中心として、近くから遠くへと地球レベルまで広げていくことができます。共同社会としての広がりは「自分−家庭−地域共同体−民族−人類」となります。一方、利益社会としては「自分−会社−地方−国家−国際社会」となります。
社会を時間的に見れば歴史となります。社会は発展段階に応じて、共同社会から利益社会に向うとされています。しかし、これには共同社会のある部分を残しながらというコメントをつけ加える必要があります。たとえば、“朝顔”が開く過程をみるとき、花びらは広がっていっても、花の中心部にあるめしべはそのまま元の位置にあります。社会の発展を、花びらが大きく開いていくことに見立てれば、それを中心部で支えているめしべの働きもまた、見落すわけにはいきません。めしべとは家庭に限らず、社会のもつ共同社会的側面をさすものです。
人々の眼は、時代の先端を行く花形部門に向けられがちです。それは社会の発展にとって必要なことです。しかし、社会全体がそうなっていくと受けとるのは早計です。変らない部分の支えがあってこそ変れる部分があるのです。未来を指向すればするほど、過去の歴史や伝統の重みがましてきます。そのことによって、全体のバランスを保つことができるのです。「温故知新」とは古いものを現代に生かすことといえます。
テンニェスは利益社会における主な職業として、商業、工業、学問をあげ、一方共同社会におけるそれとして、家内経済、農業、芸術をあげています。さらにそれぞれに植物的、動物的、人間的という対応を与えています。
ここで興味がもたれる点は、共同社会的職業は、いずれも個人レベルの根気のいる手仕事だということです。高度に近代化された先端産業といえども、結局裏方さんの職人芸がそれを支えているのです。それはピアノを調律する人、レンズを磨く人、きき酒をする人、ヒョコの鑑定をする人といった人たちです。
健全かつ堅固な社会とは、檜舞台に立つ人々と、陰でそれを支える人たちの間で“阿吽の呼吸”が通じることです。それはまた双方に感謝と思いやりの気持があることでもあります。
私たちの日常生活は、一定のリズムをもって、共同社会と利益社会の間を往復する運動として捉えることができます。物事には、バランスを保ちながら広がるという性質があります。この場合、広がることよりもバランスの方がつねに優先する点に留意する必要があります。