電脳経済学v3> g自分学> 2-3-3 親は子を選べず子は親を選べず

夫婦の関係を水平的とすれば、親子のそれは垂直的といえます。夫婦は両性の合意によって成立し、その立場は対等なものです。それに対して、親子の因縁は運命的な出会いによるもので、その立場は対等ではありません。親子関係の特質は、生命の連続性にあります。それは子が長じて親になる営みが連綿としてくり返されることです。
この運命的な出会いで始まった親子関係から、誰も逃れることはできません。生ある限り続くこの関係は、自由意志による選択の余地のないものです。何があっても、親子は因縁という太い絆で、生涯くくりつけられ離れることができないのです。
親の存在自体は、誰にとっても絶対的なものです。しかし、親子の相互関係は、年を経るにしたがってゆっくりと変っていきます。親は箪笥の中にある樟脳のようなものです。子が樟脳の香気を吸って育っていくにつれ、中の樟脳はやせ細っていずれ消え行く運命にあります。この間における親の使命は、生存のための情報を子に伝えることにあります。
子供が立派な芸術作品として育つかどうかは、この情報の受け渡し次第で定まります。夫婦、親子、家族関係に限らず、人間関係はすべて情報で結ばれた“形なき芸術作品”といえるものです。
人間を形成要素によって「父母所成」「飲食所成」「意識所成」とわければ、親子のつながりはより明らかになります。父母所成、飲食所成はいうに及ばず、意識所成においても、幼少期にすりこまれた倫理や宗教に関する意識は、その子の生涯にわたって影響を及ぼすものです。子が親の壁をなかなか乗り越えられないゆえんです。それは親というより、親を通してその社会や時代の空気を吸いこんだのです。そして子が親になった時、その子は幼少期の問題意識を実現するとともに、かつてその親が自分にしてくれたと同じ態度をもって、その子に接することとなるのです。
親子を結ぶものは、親の子に対する愛情、子の親に対する信頼をおいてはありません。人間に対する基本的な信頼感は、親との間の安定した愛情関係によって培われます。これは教育以前の問題であります。
親の子に対する愛情は、夫婦の愛情と異なり、決して憎しみに転じることはありません。親の子に対する愛情は、背かれれば背かれるほど、子に欠陥があればあるほど、深まるものです。このような絶対的な愛情は、慈悲とよばれます。親はその子の生涯にわたって絶対的な責任があるのです。
一方、子の立場からは、親は生涯を通して絶対者であります。それは親のいっていることが良いとか正しいとかの言葉や態度をさすものではなく、親心の本質ないし親の真意を汲むべきことを意味するのです。それがどのような親であれ、親に条件をつけてはいけないのです。このように相手の心情を深く理解し合う態度を、孟子は「惻隠(そくいん)の情」とよんでいます。
子供は元来、心身ともに柔軟で可塑性に富み、どのようにでもなり得るものです。しかし、現実には子供は最も身近かな存在である親をモデルとして、親の仕草を模倣しながら育っていきます。子供にとって親とその家庭は、与えられた環境条件として、その子の将来を決定するものです。
子供は自身の行為と親の顔色を見比べながら、善悪に関する意識を養っていきます。親は世間をごまかすことはできても、わが子をあざむくことはできません。子供が求めている親は、社会的に偉い親ではなく、人間的に立派な親なのです。
親が貧乏だから、親に教養がないからといって、子供が親を軽蔑したり離れていくことはありません。このことに関して誤解があるように思われます。貧乏なのは結果であって、子供はつねにその原因の方をさかのぼってみているのです。親に愛情があれば、子供は親が苦しんでいる原因を取り除く方向に進んでいきます。あるいは親に欠けているものを補おうとするのが子供の自然の心情であります。子供はけなげにも親を助けようとしているのです。
世の天才はしばしばスラム街から生れています。乱世に偉大な政治家が現われ、多くの著名な実業家は極貧のうちに育っています。平凡な常識から説明できないことです。それは恐らく物心がつく遥か以前から、親の生き方を通して、この世の姿を見つめてきた結果によるものでしょう。
親子の信頼関係があれば、子供は親の志を受け継いで、親のやり残したことを完成しようとするものです。このことについてゲーテは「自分自身に欠けていたものが、息子に実現されるのを見ようとするのは、すべての父親の敬度な願いである」といっています。心憎いまでに人間心理を見抜いている言葉といえます。
ただし、親の生き方にうさんくさいものが認められれば、子供は独特の信号を送ることによって、親の矛盾を的確についてきます。多くの親は、自分のことにかまけて、それを見過してしまいます。信号は甘えやたわいないいたずらから、反発、復讐へと、より具体的かつ強烈な様相を呈してくるのです。それは、愛情不足による欲求不満を、親に気づかせようとしているのです。
教育の言葉に「教えることは学ぶことである」とあります。これと同様に、子供によって親が育てられている面を見落すわけにはいきません。親自体がまだでき上っていないのです。

子を亡くして悲嘆にくれる親の姿は、この世の最も悲劇的なものです。一方、幼くして親に先立たれた子の痛ましい姿もまたたとえようのないものです。「後れ先立つ浮世の習」とはいえ、人には世を去る時が定められているように思われます。
親子関係は年令差によって表わされます。ところが、親子関係を子が親を必要とする程度と見れば、むしろ割り算による方が、簡潔にこれを表現できるように思われます。親の年令を分子に、子の年令を分母にとり、その商を仮に親子パラメーターとよぶとします。親が30歳の時の子であれば、子が1歳、20歳、50歳の時の親子パラメーターはそれぞれ30、2.5、1.6となります。数え年を用いれば、親子パラメーターは受胎の瞬間が無限大で、出生時に親の年令と等しく、その後急速に逓減して一に収斂していく性質のものです。
親子はその年令によって、立場が変っていきます。親は子にとって最初は絶対者の立場にありますけど、子が長ずるにしたがって次第に友人のようになり、ついには老後の身辺や最後の葬式は、子供の世話になることになります。この時期における子供の親に対する態度は、親がかつてその子に接した態度のはね返りとなるものです。「因果応報」の法則は親子の間でさえ成り立っているように思われます。