家庭は家族が相寄って生活する場所です。そこは憩いの場であり、愛の巣であります。家庭は代表的な共同社会であるとともに、社会自体の原型をなすものといえます。
夫婦という相互の意志で結ばれたヨコの関係、親子という宿命的な出会いによるタテの関係、家族はこのタテヨコ十文字の関係からなる血縁集団であり、社会構成の基本単位をなすものです。家族が容れ物としての家屋と、世帯道具一式をそろえることによって、家庭が成立します。
家庭にあっては、誰もが王者であり主人となることができます。先に述べた「随所に主となる」は、家庭において遺憾なく具現されるものです。赤ん坊から、おじいちゃん、おばあちゃんにいたるまで、一人一人が自分の流儀で自己の存在を主張することが許され、それが好意をもって迎えられます。そこでは、一家の大黒柱を中心として、一人一人が重要人物であり、かつ必要とされています。立場の違いは明確であり、役割分担は完全に独立しています。家庭は、あたかも体の各部分のように、意識されずに全体として調和的に機能することが望ましいのです。
家庭は内側に開かれた世界であり、家族はお互いに自分の延長をなすものです。心の中は知りつくされていて、自由にその中にはいっていくことができます。体は別々に動きながらも、感情は共有されている状態です。自分の将来、あるいは過去の姿を身近に投射できます。男の子は、お父さんのようになり、おじいさんのようになっていくであろうという、自分の道筋を肌で知ることができます。女の子の場合も同様に、時系列的な母親像を目のあたりに学ぶことができます。一方、祖父母の側からは、かつての自分の姿をそこに見出すことができます。ほほえましくも、にがにがしくもある昨日の自分が動きまわっているわけです。
かつての家父長制的な大家族の姿は、大方このようなものでした。家族のぬくもりがおのずと心理的な安定を与えていました。しかし、それは良いことばかりでもありませんでした。
戦後における諸改革の中で、民法の改正は特筆に値します。それは日本の社会思想史の上で革命的意味をもつものです。つまり、家族制度の中に人間の尊厳と両性の本質的平等に対する考え方が、とり入れられた意義は大きいのです。なぜなら、家族制度に基づく家族関係によって、広く人間関係一般が規定されるからです。このように、家族関係のあり方が、日本人の意識や社会全体の質的変革に契機を与えた点を見逃すことはできないと思われます。これは歴史の一部というより親の代の出来事として受取る必要があります。
それまでの家族制度は、家を中心に据えてそれを守るという大義のもとに、嫁の犠牲の上に維持されていました。「女は三界に家なし」という言葉がそれを端的に物語っています。儒教的な家族制度のもとでは、権威に対して従順であることが最高の徳目であり、それを社会的弱者である女性に一方的に強要するものでした。どの社会でも、立場の弱い者の犠牲の上に成り立つ面は否めません。しかし、弱者がいつまでも弱者であり続けるものではないことも、歴史的な事実といえます。いつの世、どの世界でも、女性の教育水準、婦人の社会的地位は、いみじくもその社会の発展段階に指標を与えているのです。
“オレも苦労したのだから、オマエも苦労するのは当り前だ”とするのは「姑の嫁いびり」の論理です。この単純かつ幼稚な報復精神は、程度の差こそあれ、今日もなお日本社会のあちこちに生き続けています。それは権威をよりどころとして、既得権益にしがみつく“やみくもの現状維持体質”によるものです。
事大主義、権威依存、家族意識に支えられた儒教倫理は、社会秩序維持の面ではそれなりの役割を果してきました。しかし、国際化時代を迎えている今日、私たちは人類普遍の原理に基づく倫理観をもつべきであり、かつそれにしたがった行動をとるべきだと思われます。私たちはつねにその時代に責任があるのです。
戦後における女性の地位向上は、先に述べた法的改革に加えて、戦後における目ざましい経済発展に大きく依存しています。「親子は一代」「夫婦は二代」「主従は三代」という諺があります。主従関係に重きが置かれたのは、封建社会を維持するための身分制度のしがらみというより、雇用機会が極めて限られていたことによるものです。どのように立派な法律や制度があっても、現実に生計の道がなければ、それは死文と化してしまいます。
経済の発展と核家族化の進行には、密接な関連があります。家庭電化に代表される女性の生活環境の改善及び地位向上と裏腹に、経済発展のにない手であった父親の、家庭における権威の失墜は目に余るものがあります。父親に権威を与えていた根拠は、一つ一つ潰されていきました。統合原理としての権威は、家庭民主化により、判断基準としての権威は情報社会化により、家計収入としての権威は女性の社会進出により、という具合です。
今や兵隊に行く必要もなく、力仕事もなくなって、父親の出る幕はなくなる一方です。父親の評価はいかに家族に迷惑をかけないか、どの位家族にやさしいかによって計られるようになりました。父親は家族関係の緊張から逃れるために、家の外に安らぎの場所を見出して、息を抜いている有様です。家庭における男女の立場は完全に逆転してしまったようです。それは東洋的母性原理でもなく、西洋的父性原理でもありません。家庭崩壊は父親の自信喪失にその原因があるように思われます。
家庭は愛の世界であり、争いや競争関係を前提としていません。それ故に、家庭内で不和が発生すると修復は容易ではありません。この場合、家庭のもつ閉鎖性は逆向きに作用します。片方で身内の恥を曝したくない意識が働げば、他方では近親憎悪の感情が一方的にうつ積していきます。片一方が折れればよいのですけど、それができれば最初からそのような事態とはならなかったといえます。
家庭平和の条件は“肯定的態度”にあるのではないでしょうか。家族の間では、相互了解性の前提が成り立っています。したがって、肯定的態度の微妙な調子の中に、否定的要素を含めることができると思われます。合理精神やけじめは家庭にはなじみにくいものです。家庭にあっては混沌とした雰囲気をもってよしとします。よそゆき顔は玄関と客間あたりに任せておいて、家庭の主役はやはり台所と茶の間のぬくもりにあります。家庭では何事も“弛め”の方がいいのです。
家庭円満の要は夫婦和合にあります。それにはちょっとした心がけとコツがあるように思われます。原始仏教の説く夫婦間の倫理を参考にして、整理すれば次のようになります。
1 夫は妻を最良の友人として尊敬する。
2 妻は夫を最良の友人として尊敬する。
3 夫は妻に権限を与えて家庭管理を任せる。
4 妻は夫に権威を認めて最終決定を委ねる。
5 夫は妻に財力に応じて装飾品を贈り日頃の労をねぎらう。
日本の男性は照れ屋が多いので、妻に贈物をすればコケンにかかわると思っている人もいるかも知れません。それはむしろ丸反対で、コケンが気になれば、間違いなくケチな男と知るべきです。丁寧にも“財力に応じて”とありますから、ためらわず実行あるのみです。
原始仏教ではまた鋭い女性観察がなされています。
「婦女の求めるところは男性であり、心を向けるところは装飾品、化粧品であり、よりどころは子どもであり、執着するところは夫を独占することであり、究極の目標は支配権である」
世の男性をドキリとさせるものです。しかし、こうでなくては人類はその昔に滅亡していたかも知れません。これに対応する男性観察は女性にお任せするほかありません。
結論的に、家庭の中での父親の態度としては、毅然としていていつも機嫌が良く、誠意をもって家族の話が聞けること、といえるのではないでしょうか。