電脳経済学v3> g自分学> 2-4 幸福は自分でつかむもの

電脳経済学v3> g自分学> 2-4-1 幸福を望まない人はいない

幸福は万人共通の関心事です。
人生究極の目的も幸福にあります。
何をもって幸福とするか、それがその人の人生観であります。
幸福はまさに人類普遍の問題といえます。政治、経済、社会、歴史、哲学、科学、宗教, 芸術、あらゆる分野における人間活動は「幸福」の一点に収斂していくのです。
パスカルは『パンセ』(『瞑想録』)の中で「すべての人間は幸福であることを求める。これには例外はない」といっています。「人間は考える葦である」の言葉で知られる十七世紀フランスの哲学者パスカルは、また数学、物理学、宗教の各分野においてもすぐれた業績を残しています。彼は数学の真理と人間性の真理の調和的統一を試みた末に、それは人間性の矛盾のために、哲学的に解決不能との結論に達し、キリスト教による救済にその解決の道を求めました。『バンセ』はパスカルが晩年に書き残した断片的ノートから、後に編集されたものです。
パスカルがあえて「例外はない」というように、幸福に無関心でおれる人はいません。したがって、哲学及びその一分野とされる倫理学、あるいは文学上の諸問題は、最終的には「幸福とは何か」に集約され、古来多くの哲学者や文学者によって論じられてきました。同時に、それは極めて個人的色彩が強く、本人の主観的な価値判断に大きく依存している点に特徴があります。
幸福の問題は人間の倫理と深く関係してきます。倫理とは“人間の本来あるべき姿”を示すことです。人間は本来幸福であるべきで、そのための理論が倫理です。悪いことをしないという禁止条項を並べることが倫理ではありません。むしろ、人間の理想像を積極的に追求していく姿勢が、本来の倫理であります。たとえば、家庭における父親像をみるとき、酒を飲むから悪い父親とは一概にいえません。父親はこうしてはいけないというより、父親はこうなくてはならないという考えが先にくるべきものと思われます。
倫理という山頂に至る道筋を与えるものが道徳です。道徳は倫理の方法論であり、具体的な実践徳目を示します。それが道徳規範とよばれるものです。規範には法律規範、道徳規範、宗教規範があります。社会的影響の程度に応じて、強制の度合が順序づけられています。倫理の普遍性に対して、道徳は時代性、社会性を色濃く反映し、個別に制約を与えます。先生の立場で、女のくせに、学生の分際で、子供らしく、といったことです。

幸福をめぐる議論は、くり返しくり返しあらゆる角度からなされてきました。しかし、人間の生活に深くかかわっている言葉ほど、通常は意識されることもなく、かつ曖昧に用いられているように思われます。私たちは生れ落ちた時から空気を呼吸しているにもかかわらず、それを意識することがないように、幸福もまた私たちの意識にのぼることはまれなことです。幸福の問題がこのように、漠として収拾がつかないのは、それがあまりにも多岐にわたることによります。
幸福は個人の問題であるとともに、人類共通の関心事でもあります。幸福は現実問題でもあり、理想の姿でもあります。主観的でもあり、客観的でもあります。私たちが幸福を論じる時、それは幸福の定義であり、幸福の意識であり、幸福の条件であり、幸福になる方法でもあります。快楽が幸福だという人もいれば、苦行が幸福だという人もいる始末です。
事実、幸福は貧富貴賎といった社会的条件から独立している自己認識といえます。幸福は自己定義とその評価による心的態度にほかなりません。置かれた境遇をどのような面で切り、どこからどうみようと本人の自由です。
シェークスピアは「ものは考えようである。人生には幸福も不幸もない。考えようでどうにでもなるのだ」といっています。達観すれば確かに幸福の出る幕はありません。しかし、これでは愛敬も、とりつくしまもありません。天才はいつもぶっきらぼうで、鈍才はくどく、凡才はその間をうろつきまわっています。
そうなると、私たちは幸福の問題を考えるとき、常識の世界で生活している世間の人の立場を尊重するべきでしょう。子供が生れた、試験に合格した、結婚の席、選挙で当選した、このような瞬間に幸福を感じない人はいません。私たちは日頃の努力が実って希望が達成された時、感激とともに引続き幸福感を味わうことができます。それはあたかも、永い航海を終えて、船が母港に帰り着いた時、あるいは大河が静かに海に注ぐ時の感じです。フランスの文学者フォントネルは、その『幸福論』の中で「幸福とはそのまま変らないで続いて欲しいような、そんな状態である」といっています。さしずめ朝の寝床の中で味わうまどろみがそれでしょうか。
幸福をこのような漠然とした“感じ”としてではなく、鮮明な形で数量化する考え方もあります。先に述べた親子パラメーターと同様に、所得を分子、欲望を分母として幸福度を表わすものです。幸福を欲望の充足程度から評価するわけです。現代の中産階級は、かつての貴族に相当する生活をしているとされますから、幸福であるはずです。ところが、欲望もそれ以上に大きくなり、結局はそれほど幸福とはならないようです。幸福には他者に対する優越の要素も大きく働いているのでしよう。ややハングリな目標ラィンとして、幸福度を0.8に設定しますと、欲望は所得の25パーセント増し程度となります。意欲的でかつ「知足安分」の境地を満足できる調和点があるように思われます。

幸福の問題は、自分が幸福になれば解決されるわけではありません。大人には社会的責務があります。ナポレオンはそれを「偉大」という言葉でよんでいるように思われます。
ナポレオンは中学生時代「人生の目的について」という懸賞論文に応募したことがありました。それには「人生の目的はあたうかぎり人生を多く享受するにある。できる限りそれを幸福にし、それから享楽を吸いとることにある」と書きました。この懸賞論文は一等賞になりました。後年、彼はその中学校を訪れて、書庫にしまってあったその論文を出してもらってそれを読みました。読み終ると、彼はいきなりかたわらの火の中に投げて焼いてしまいました。
「人生の目的は幸福にあるのではない。いかに自己を偉大にしたかにある」とこう彼は考えました。そこで彼は若い時のそんな考えを、くだらない浅薄な思想だと考えて焼きすてたそうです。
これは『ナポレオン言行録』にある話です。確かにナポレオンは偉大な人生を送りました。しかし、晩年のナポレオンは決して幸福といえるものではありませんでした。彼の辞書には“偉大にして幸福”の言葉はなかったようです。
“私を幸せにしてくれる人”を求める女性は多いように思われます。幸福とは一方的に与えられるものではありません。むしろ幸福とは与えることに喜びを感じる、愛の精神をさすものです。
このように、幸福な人とは、人に与えるべき何物かを豊かにもっている人であり、かつ人を幸福にしたいと強く願っている人にほかなりません。そこから幸福そうな表情が生れます。その人のまわりには、おのずから幸福な人が集るのは当然のなりゆきといえます。
幸福な人は社会のお蔭で幸福になれたと思い、不幸な人は社会のせいで不幸になったと思っています。元来、社会は誰に対しても何もしていないにもかかわらず、こうなるのです。つまり、幸福な人は社会の明るい面を見るし、不幸な人は暗い面を見るからです。
ところが面白いことに、人は誰もが自分をそれなりに幸福だと思っています。自分を本気で不幸と思っている人はいないのです。人にはある種の諦めもあって、それぞれがほどほどの世界の中で生きています。このことによって世の中は大筋において平和裡に納まっているように思われます。