電脳経済学v3> g自分学> 2-4-3 何事も余らず足りず丁度よく
私たちの社会生活のあらゆる場面で、平衡感覚は重要な役割をはたしています。たとえば、石につまずいた時に、とっさに身をたてなおすことができるのは、内耳に組みこまれている三半規管の働きによるものです。転び方といえども、子供、青年、老人ではそれぞれ異なってきます。子供は無意味に転んでいるわけではなく、試行錯誤的に、この三半規管の訓練をしているわけです。スポーツや音楽演奏などでは、さらに複雑な動きが求められます。これらはすべて平衡感覚の働きによるものです。
さらに、私たちの精神と肉体が合目的的な働きができるのは、ホメオスタシスによるものです。ホメオスタシスとは、アメリカの生理学者キヤノンの命名によるもので「恒常性」と訳されています。人間に限らず、生物は外的環境の変化に対応して、体内諸器官の働きを自動的に調整することによって内部環境を一定にする機能があります。暑いときには毛孔が開き、気化熱によって体温を一定にする働きなどがその例です。
社会には慣習や保守性があり、物理の世界では慣性の法則が、私たちの生活では無意識の習慣が働いています。これらは基本的に「安定」を求めている姿といえます。先に、自然界には“分散させる”力が働いているとしましたけど、これらは「平均化の法則」とよばれます。このことは最近では、環境問題などとの関連から「エントロピーの法則」ともよばれています。エントロピーの法則とは“物質には一方的に散らばっていく性質がある”ことを述べたものです。
私たちの社会生活は、ある意味で我慢の連続といえるものです。職業上の務めでは、本人の意志に反して強制されるのは日常的とさえいえます。たとえば、客商売では相手がいくらわからず屋であろうと我慢を強いられます。かといって公務員の場合でも、規則と命令で身動きもできないようなものです。サラリーマンは辛いよといいますけど、辛いといえばどのような職業も辛いのです。
現代管理社会では、どの方面であれ組織化、合理化が進んで、職業生活の中で遊びの要素は排除される一方です。競争社会の中で生き抜くには、専門分化や合理化は避けて通れないのです。能率をあげるためには、人間はますます部分として使われ、個人の感情や自由の余地は狭められ、そのぶん抑圧だけが強くなっていきます。
私たちはそれに対して、余暇活動なり趣味の分野で、自身の創意と工夫によって人間性の回復をはかる必要があります。人間性とは全体性をさすものです。つまり、職業生活で部分として使われるのであれば、余暇活動では使われない部分を積極的に動かすことです。たとえば哲学者が散歩を好み、物理学者が楽器を奏で、政治家が絵を描くという具合です。私たちの周辺でも、営業マンが勝負事に、技術屋が魚釣りに、経営者が広い空間に趣味や息抜きを求めています。
精神面の平衡感覚は、さらに大切といえます。精神の安定を保つには、二つの点に注意する必要があります。一つは我慢しないことです。「我慢」「辛抱」「忍耐」これらは異なったものです。我慢とは我を張って相手を責めながらも、自分を押えている心の姿です。これに対して、忍耐は相手を受けいれた上で耐えているのです。止むを得ないと納得しています。私たちに忍耐力は必要ですけど、我慢はほどほどでよいのです。他の一つは理解です。私たちは相手を理解すれば我慢する必要はなくなります。理解するにはその前に忍耐が必要です。原始仏教に「悪人は尊敬を受けると滅びてしまう」という言葉があります。一度に尊敬はできないとしても、悪人を刺激してはいけないのです。忍耐?理解?尊敬の順序をふめば、この世に悪人はいなくなります。
「幸福とはそのまま変らないで続いて欲しいような状態である」とすれば、幸福こそまさに平衡状態そのものといえます。確かに幸福とは“つつましくまとまった”状態といえます。大きい幸福を求めれば、満ち足りない部分は不幸と感じられます。世の中に大きい幸福は存在しないのです。その場合、むしろ欲望とよばれるべきでしょう。
幸福とはまた“丸い”ものです。幸福がこのようなものであれば、幸福とは自分の過去の中に価値を見出して、それに感謝する気持といえないでしょうか。誰しも過去にいくらかの悔いはあるとしても、現在の姿を静かに見なおしてみると、私たちはすでに諸々の豊かに与えられたものに取り囲まれていることに気づきます。希望と勇気は、この丸くて小さい幸福を大切にする気持の中から、自然と湧き出てくるものです。