電脳経済学v3> g自分学> 3-1-4 迷ったときのよりどころ

人類は開闢以来、何らかの宗教をあたかも空気のように呼吸してきました。宗教は私たちの精神世界を根底で支えているものです。しかし、私たちの日常生活でこのことが意識されることはまれであります。このことから、日本人は無宗教だといういい方もされます。
しかし、どうでしょうか。人生の節目である、生れた時、結婚する時、死んだ時、どこへ行き、誰に、何を祈り、何を誓い、どのように弔うでしょうか。さらに毎年のこととして、盆、正月に、先祖の供養をし、一家そろってお宮に参ります。このような善男善女の営みが宗教と無関係とはいえません。外面的な戒律の厳しさによって宗教を論じるのはいかがなものでしょうか。
日本人のこのような宗教態度は無宗教というより、むしろ重層信仰によって特徴づけられています。宗教はその発展段階によって、呪術的未開宗教、民族宗教、世界宗教に区分できます。重層信仰とは同時に複数の信仰を受けいれることです。神道と仏教の神仏混淆(神仏習合)がそれにあたります。くわえて祈祷的な民間信仰も行われています。
人間は自分の弱さを補うために、外部によりどころとなる何らかの強い者を求めます。人間が社会や宗教を必要とするゆえんです。それは、その人が何に弱くて何を求めているかに対応して、人、物、金、権力、知識、愛情と多方面にわたるものです。それらを抽象しつくした窮極的な姿が、人間を超越した力をもつ絶対者としての「神」であります。
したがって、神とは、全知全能な絶対者、人格を与えられた最高存在、天地万物の創造主、自然の統括者、完全者、聖霊、祖霊、宇宙意識、真理、理法、全世界、森羅万象をさします。つまり、それは表現も定義もできないものです。神のイメージは各人各様であり、他者の介入を許さない世界です。神は信仰の対象ではあっても、議論の対象ではないといえます。神なぞ存在しないという人もいます。
人間が自身の脆弱性、有限性、部分性に目覚めることは、自身の内側にもなんらかの人間を超える者を認めることでもあります。これを「仏」とよびます。より正確には、仏となり得る性質を有するという意味から「仏性」とよばれるものです。
つまり、意識を人間の外側に向ければ「神」の世界が、内側に向ければ「仏」の世界が広がります。神仏混淆はこの「外なる神」と「内なる仏」を同時併行的に信じる宗教態度といえます。
この外的存在と内的認識は、相互の関係にあります。これは次に述べるカント、フォイエルバッハ及びマルクスの言葉に照らして、合理的な宗教態度といえます。すなわち、十八世紀ドイツの哲学者カントは『実践理性批判』の結論の中で「私の上なる星をちりばめた空と私のうちなる道徳法則」という言葉で、外なる神と内なる神を表現しています。また十九世紀ドイツの思想家フォイエルバッハは「神は人間の内面であらわになったものであり、自己自身をいいあらわしたものだ」としています。これは私たちが「仏」とよんでいるものにほかなりません。さらに、十九世紀ドイツの思想家マルクスは「存在が意識を決定する」としてフォイエルバッハの人間主義的な唯物論に対して、弁証法的唯物論を樹立しました。人間をめぐる存在と意識の関係は、まさに人間存在の核心をなす根本問題といえるものです。

誰にとっても、自分はこの世で最も愛しい者です。仏教はその基本的姿勢において“自己の絶対性”“人間の持つ自己中心性”といったものを、そっくりそのまま認めます。「天上天下唯我独尊」とは、自分こそがこの宇宙の中心に位置するものであり、最も尊い存在であるとする立場であります。仏教的世界観によれば、自分が座標の原点をなすもので、そこからこの世界をありのままに見据えようとするものです。
これは決して不遜な態度ではありません。争いが生じる余地もまったくありません。もしこの世に、自分より尊い者を認めれば、自分は二次的、三次的な存在となります。主体性が崩れてくるのです。仏教はこのように自分を唯一無二とする態度から出発しながらも、窮極の姿として、この自分を滅却させてしまおうとするものです。
誤解を避けるために、用語の整理をすると次のようになります。本来態の自分を“自己”とよび、日常態の自分を“自我”と名づければ、自己を肯定し、自我を否定することになります。自分とはこの自己と自我からなります。仏教はその人その人に応じて、そこに至る手ほどきを与えるものです。
このように、仏教の説くところは、率直であり、明快であります。同時に孤独であり、厳しいといえます。それは仏教が「真理」を悟ることによって「慈悲」の実践に至るという径路をとることによります。
それに対して、神を信仰する宗教では、神の言葉として「倫理」は最初に与えられます。“真理から倫理へ”“倫理から真理へ”この方法論に違いがあるように思われます。
大切な点は、宗教が真理を説いていることです。宗教倫理が自然の理法にかなったものでないことには、普遍的に人間の行為を規定することはできません。私たちは客観的真理だけが真理だとする先入観をもっているために、宗教と真理の関係を理解する場合、障害になっているように思われます。
たとえば、ここに巨大な望遠鏡があるとします。それをこちらの「いかにあるべきか」という倫理の側からよく見れば「主観的真理」が見えるし、あちらの「いかにあるか」という論理の側から見れば「客観的真理」が見えます。真理をきわめようとする態度において、ともに同一の軸の上にあるものです。
この真理は、仏教では「法」とよばれ、キリスト教では「ロゴス」の名が与えられています。ロゴスには「理法」または「言葉」の訳語があてられています。
私たちは自分の考えは正しいと思っています。自分の考えによって生きていかなければ、ほかに方法はありません。この自分の考えが主観的真理です。それは絶対的真理ではないかも知れませんけど、証明できない部分は信じて進むほかないのです。知りつくせない世界を信じる態度がなくては、知見が広がることもまたないというべきでしょう。知る世界が科学とすれば、信じる世界は宗教といえます。この世界は知り尽くすことはできなくても、信じることはできるのです。