電脳経済学v3> g自分学> 3-2-2 欲望という名の万有引力

十九世紀末ロシヤの文豪トルストイの『人生論』に次の小話が出てきます。

ユダヤ人とキリスト教徒との争いについてこんな古い小ばなしがある。その話というのは、ユダヤ人の論法のややこしいまでのこまかさに応酬していたキリスト教徒が、平手で相手の禿げ頭をぴしゃりと叩いて、問いかけた―この音はなにから出たのか、手のひらからか、禿げ頭からか、と。そして信仰についての議論は、新たな解決のつかぬ問題にとって代ってしまった、というのである。
人生問題についても、なにかこれに類したことがずっと古い時代から、人々の真の知識と並んで起こっているようだ。

「もし象が鳥のように卵から生れるとしたら、象の卵の殻の厚さは、どれくらいでなければならないか」「象の卵の殻を砕くにはどんな火薬が必要か」このような話を引用しながら、太古からこの地球上で、人間はとりとめもないことをくり返してきていると、トルストイはさらに慨嘆するのです。
さらば、何がとりとめもないことで、何をもって合理的人間活動とするのかについて、彼はその一流の克明さをもって、世界中のあらゆる宗教思想や科学的根拠を例証にあげながら、とめどもなく思索を続けていくのです。
そしてもとはといえば、ある婦人からの手紙に対する返書をしたためて、それに加筆していくうちに、ついに人生論に関する本になってしまったのです。肝心の返書は結局未完成に終ったそうです。

キリスト教徒がなぜ相手の禿げ頭をぴしゃりと叩いたのか、そしてその音は何から出たのか、手のひらからか、禿げ頭からか。私たちもこれが果して新たな解決のつかぬ問題か否かについて考察を加えてみましょう。
聖書に「右の頬を叩かれたら、左の頬を向けなさい」とはありますけど、禿げ頭を叩かれたら、どうしろとは書いてないようです。ちなみに、仏教では“右の頬を叩かれたらどうするか”と問えば、“そんなことにはならんでしような”となります。つまり、理由もなく、叩くことも、叩かれることもないとするのが仏教の態度です。つれないものです。
キリスト教が処世訓的なところがあるとすれば、仏教はあくまで理屈で押していきます。基本的にキリスト教は未来に向けての倫理的色彩が濃いのに対して、仏教は過去における論理に眼を向けています。つまり、仏教は「因果律」に関する科学といえるものです。真理、真理とやかましくいう理由はここにあります。
「禿げ頭をぴしゃりと叩く」行為、そのよって来たるゆえん、その波紋が広がるさま、この一連の出来事を仏教では「業」(ごう)の一字で片づけてしまいます。ところが、これがまたわかりづらいのです。したがって、まず「煩悩」という“瀬”からせまることにしましょう。「業」とは底なしの“淵”です。直接切りこんでいけば、はまりこんで引き返せなくなる恐れがあります。オバケがいるかも知れません。

キリスト教が「希望」を説くとき、仏教は「煩悩」と応えます。このようなことから、仏教には暗いイメージがつきまといます。しかし、この間に「欲求」という言葉を入れれば、明るい「希望」に橋渡しができます。さらに「希望−要求−欲求−欲望−煩悩」とすれば、無理なく関連づけられそうです。希望が精神的、社会的であるとすれば、煩悩は肉体的、個人的となります。
私たちをとりまく“苦しみ”の元凶は、ほかならぬこの煩悩にあるのです。そのことから、煩悩は煩悩魔ともよばれます。それは次のようなものです。

    煩(三毒)
〇貪欲(どんよく)(貧)―満ちたりることを知らぬむさぼりの心
〇瞋恚(しんい) (瞋)―自分に甘く他を責めている怒りっぽい心
〇愚痴(ぐち)  (痴)―冷静な判断のできない愚かな心

何しろ、先に述べたように、煩悩はその数、八万四千といわれていて、大まけにまけてもらっても百八煩悩、それをさらに三つにしぼってくるのですから大変です。
愚痴は日常語では不平や小言の意味に用いられています。しかし、ここでいう愚痴とはむしろ“無智”をさします。無智とは知恵のないことで、無知とは知識のないことです。仏教用語ではこの無智を「無明」(むみょう)とよびます。無明とは真理に暗いこと、つまり物の道理がわからないことです。明るさがないわけですから、心が闇の状態です。したがって、煩悩とは知恵がないことにほかなりません。知恵が足りないから苦労するのです。
何だ、それならこの三毒とはいやなアイツそのものではないか、と思うか、自分にも思い当るふしがある、とするかです。しかし、しおらしく反省した位で煩悩はなくなりません。何しろ煩悩は本能とグルになっていますから、しぶといのです。悟ったような錯覚におちいって偽善者になりすますのを煩悩は泣いて喜ぶのです。
私たちはここで冷静にならなくてはなりません。仏教では“煩悩を絶て”と説きます。そうなると、貪欲と健全な意欲をどう区別するのか。怒るなといわれても、社会の不正や不合理に眼をつぶるのは、勇気がないことにならないか、となります。さらに、私は子煩悩だから知恵がないことになるのか。それでは子供は育たないではないか。食欲がなくなれば死んでしまうではないか。煩悩をなくせなど、それではまるで人類絶滅の悪魔の宗教ではないか、このように問いつめてくる人がいるかも知れません。
これは困ったことになってきました。その通りだからです。煩悩だろうと、欲望だろうと捨ててしまったら生きていけません。しかし、私たちはここで“絶対的”と“相対的”という言葉を思いおこしてみる必要があります。“煩悩を絶て”というのは、最終目標としての“絶対的”世界を説いているのです。私たちが生きているこの世は“相対的”世界です。つまり“どういう順序で煩悩を絶っていくかは自分で判断しろ”ということです。それが“知恵”にほかなりません。“煩悩を絶つほどに知恵が湧いてくる”ともいえます。
ここでトルストイに再び登場してもらいましょう。さきの『人生論』で彼は「合理的活動とは自己の考察をその重要さの順にしたがって配列すること」としています。極めて科学的な表現といえます。“重要さ”とは何かとなると、これも新たな問題となります。しかし要は、トルストイが“順光”をあてて“重要さ”といっているのに対して、仏教では“逆光”に透かして“煩悩”というのです。つまり“重要さ”の順で拾っていくか、“不用”な順に捨てていくか、ということです。たどり着くところは同じかも知れませんけど、煩悩という“心のガラクタ”を捨てていく方がわかりやすいように思われます。
さて、ここで再度冷静になりましょう。いったい、この世に“不用”なものがあるでしょうか。「不用の用」という言葉があります。用い方を知らないから不用になるのではないでしょうか。“知恵が足りない”のです。このことを仏教では「煩悩即菩提」(ぼんのうそくぼだい)と説くのです。山の反対斜面が見えてくることです。
このことから、煩悩とは“過ぎた欲望によって乱された凡夫の感情”といえます。短くいえば“執着”です。
しかし、ここで“感情”といってしまうと、感情が働いて判断を誤ります。感情は価値に対する態度ですから、なるべく慎重にあつかいましょう。重要さ、目的、価値、感情、これらはある意味で人生の結論となるものですから、軽々に論じることはできません。