C4−1:今日は、”あるがまま”についてコメントさせて下さい。
女の好きなナイーブと○○○の好きなあるがまま。
両方ともイメージだけ先行して、手垢にまみれたまま使われている言葉。
ここで落ち着いちゃったら陳腐です。
英語ではなんて言うんですか? Let it be ですか? As it is だったりして。
Let it be なら、かなりましですね、音楽が聴こえてくるから。
でも、”あるがまま”ってなんか神経症になりそうですよ。
主語も述語もはっきりしないし。内容がないよう。呪文とか空念仏とかと同じですね。
それとも神様の名前かな。
”あるがまま”を恒に唱えていれば安心立命の境地に達し、心は乱れることなく、将来には希望が満ちあふれるでしょう。
不安や絶望を感じるのは、”あるがまま”を深く理解していないからです。
とかね。
”あるがまま”だけじゃわかんないよ、才能無いから。
”つまり存在と認識は相応の関係にありますからあるがままを認めればそれでよしという極めて楽天的な結論になります。”(光延さんの文章)
’”あるがまま”を認めない’ことは、”あるがまま”ではないのですか?
そしたら、そのまんまでどうでもいいという事になりませんか?
”あるがまま”と言うジョーカーを切っておけば、賢明な読者は真意をくみ取ってくれるだろう。
と、思われているかもしれませんが、そうとは限りません。
”これを裏返せば人間が政治を必要とする理由は現実を認めない態度にあります。”
(同上)
”あるがまま”を認めれば欲するままにして則を越えず。ですか?そんなに甘いかな。
下手したら、受け身の運命論になってしまう。
C4−2:存在と認識は弁証法的な関係にあって簡単には一致しないと私は思います。
だからここを端折られるとつらい。
存在様式と認識様式にはずれがあります。そこに、所有欲とか恐怖とかの錯覚(光延さん流に言えば常識と同義の偏見)が入り込みます。所有欲は社会関係、恐怖は身体性からくるのかな。
身体を持って社会に暮らしながら、どうやれば、あるがままで知足なんてことができるのかを読者は(私は)知りたいわけです。
サイバースペースとマテリアルワールドが併存するところに活路を見いだしたいわけですよね。
R4−1:言葉には多義性がありますから「あるがまま」についても脈絡や状況を踏まえて捉えないとさまざまな解釈が成立すると思われます。その意味で曖昧な用語法と言われても仕方ありませんが、ほかに適切な言葉が見当たりません。その主旨を補足しますと次のようになります。
第一の主旨は「多様性の承認」です。短く言えば他者の意見に反対しないことです。これは他者に要求することではなく、自分自身に言い聞かせる言葉です。したがって、これはいい加減な妥協ではなく自分に向けた厳しい要求だと思います。逆に人々はなぜ反対するのかと言えば、背景や根拠を理解しないからだと思います。孔子の言う「六十にして耳順う」(したがう)も同じ文脈だと思われます。意見の違う人が周囲にいるからこそお互いに生きている意味があるのではないでしょうか。
第二の主旨は「事実唯真」の立場を指すものです。これは耳慣れない言葉かも知れませんが、何事も真理に立脚して主体的に考える。あるいは真理だけを拠り所として生きて行くという意味です。釈迦はこれを「法に拠るべし、人に拠るべからず」と教えています。むしろ「現実を認める」と言うほうが早いかも知れません。この世界は虚飾や欺瞞に満ちていますが、その仮面をはぎとって行くと真理つまり法(ダルマ)だけが残ります。あるがままとはこの丸裸の赤子のような意識を指すものですが、確かに実践は容易ではありません。しかし、年月をかけてそれを目指すことは出来ます。このことは歴史解釈にも適用出来ます。歴史とは事実の連鎖があるだけです。事実を認めなければ、適切な歴史解釈に至ることも出来ません。同様に善悪、美醜、利害得失の類も人が勝手に決めている「こだわり」と言えます。
この意味で御指摘の通り「運命論」とも「開き直り」ともとれます。ただし、この場合は同時に「必然論」でもあります。未知だから運命であり、信じれば開き直れるし、既知であれば必然になります。思想的には老子の「無為自然」の考えに近いと思います。無為自然とは何もしないのではなく、余計なことや小細工をしないと言う意味です。私はこれを「準静的」生き方と呼びたいのですが。
R4−2:存在と認識が弁証法的関係にあるとの見解は同感です。つまり意識の拡大は直線的に進むものではなく、相互関係とか紆余曲折は避けられません。所有欲や恐怖を私は否定していません。それらはむしろ正常な姿と言えます。しかし、加齢とともにそれらが薄れて来るのも事実です。いずれにしても、この世は思うようにならない。それゆえに人は苦しむわけですが、私のあるがままとは「それではなるように思えばいいじゃないか」という反転した発想です。これは現実の観察と承認を繰り返すことにより達成可能だと思われます。