図e24-1 意識拡大化 |
図e24-2 存在と認識
| 図e24-3 梵我一如 |
e24-1 最終目標としての梵我一如:
電脳経済学は最終目標として梵我一如という考え方を目指しています。梵は宇宙を我は自己を指しますから宇宙と自己の一体化あるいは宇宙と自分の同一視が梵我一如の語意であります。この考え方は古代インドのヴェーダ教典に見られます。ヴェーダ教典はバラモン教の根本聖典であり紀元前十数世紀から千年にかけて成立しました。そのヴェーダ教典時代の末期にウパニシャッド哲学が生まれ、そこで宇宙の最高原理(ブラフマン:梵)と個体の究極原理(アートマン:我)の一致が説かれます。梵我一如思想はこの大宇宙/宇宙(macrocosm)と小宇宙/人間(microcosm)の相応を説く秘義に由来します。これを簡潔に述べれば人間に秘められた可能性は宇宙規模にまで展開可能とする思考法であります。
宇宙の捉え方として「人間が宇宙の存在を認識する」という言明はアプリオリ(先天的/先験的)に是認できます。これを反転すれば「人間は宇宙の自己認識だ」とする構図も成立します。これは人間は神の似姿である、つまり神が人間を自分に似せて創り給うたとする考え方と軌を一にします。無神論者のためにつけ加えれば両者は親子関係に比喩できます。ここで宇宙とは天体と言うより自己の外部を指します。つまり内外とか自他と言う対応関係を同心円的に相対化します。人間から宇宙へあるいは逆に宇宙から人間へと連続的に捉えて切れ目を入れない立場です。仏教も成立の時代状況に照らしてこの一如思想の流れを汲むものです。梵我一如思想はまた一切を肯定する絶対中立あるいはすべてを水平的に認める万物斉同の老荘思想とも通底します。一如思想の対極には弁証法や二元論で代表される対立思想があります。脱構築で知られるジャック・デリダはこれを西欧哲学を巡る「二項対立」の前提と呼んでいます。一方、歴史的事実として主張と批判を通しての二項対立的展開がなければ今日に見る科学技術も地球文明も存在しません。一如思想の真義は両者の是非を離れて多様性を肯定する人生態度つまり寛容の精神にあります。両者の併存/成立は論理学により証明済みであり残された課題は理解と実践如何にかかっています。
e24-2 経済過程における意識拡大化の意味:
図e24-1は梵我一如へ向けての意識拡大化を表現しています。意識拡大化とは人間意識の宇宙存在への接近を意味します。人間は出生時は可能態として与えられ、その後は先ず理想を描きその実現に向けて生涯を送ります。この過程で同心円的に意識拡大化が進みます。それと同時にある種の偏見もまた育って行きます。ここで言う偏見は常識と同義ですから両者を識別する基準が必要となります。社会の基準は道徳ですが、電脳経済学の基準は「あるがまま」となります。
「あるがまま」では社会が成立しないと危惧されるかも知れませんが人間には倫理意識があるので心配無用です。道徳は倫理によって制御可能です。この場合に系の位置付けは生命原理や環境に求めます。例えば生物と無生物の差異を確認するとか日本を論じるには世界を知るべきとする論理です。道徳を教え込むのではなく倫理観を形成させるのが教育です。
「経済過程における意識拡大化」は梵我一如の文脈から次のようになります。
つまり、消費の本質は情報蓄積であり、生産の本質は蓄積情報の外部化であります。
e24-3 存在と認識の関係:
宇宙の中心に自己なる人間が存在して、その人間は内なる意識で外なる宇宙を認識しています。この関係を図e24-2存在と認識に示します。これはe24-1で述べた大宇宙/宇宙(macrocosm)と小宇宙/人間(microcosm)の関係に外なりません。これは真偽の問題ではなく見方の問題であります。つまり存在と認識は相互関係ですから「あるがままを認めればそれでよし」という極めて楽天的な結論になります。
これを裏返せば人間が政治を必要とする理由は現実を認めないからです。もとより政治は必要ですが、意識拡大化に対応してその程度は減じます。ちなみに存在と認識の前後関係は出現順序あるいは発達心理学的に存在が先で認識が後になります。人間社会の矛盾や不条理はこの逆転関係から発生しますが、これは社会発展の契機あるいは人間成長の動機を提供しています。ここが前節で「見方の問題」とした本意です。因みに存在と認識の関係については人間原理のページで宇宙原理と絡めてさらに踏み込んでいます。
e24-4 相応の理としての梵我一如:
宇宙と人間の対称的な関係は図e24-3梵我一如に示す通りです。存在している通りに認識すれば善も悪もない無為自然、万物斉同の世界が現われます。存在と認識の差異がないとはエントロピー最大の終末状態ではありません。あるがままを認めるとは存在と認識が一致して差異が消滅する状態であり、一方のエントロピー最大の終末状態とは存在が一様になって差異が消滅した状態を指します。つまり両者は全知と無知の関係に対応します。人間に全知は望めないが整然たる意識構造(例えば図e22-1)は可能であります。
梵我一如に関してはこれまでインドの哲学者シャンカラなどによる多くの研究事例があり下記e24-5参考資料にも引用/紹介されています。梵我一如の考え方は宗教・哲学・科学を横断する思想と言えます。シュレーディンガーが生命論とエントロピーの絡みからまたショーペンハウアーが哲学の立場から梵我一如思想に高い評価を与えています。本サイトではte哲学1.(15)、2.(15)にも取り上げています。
e24-5 参考資料:
1 梵我一如 (Wikipedia)
2 梵我一如の思想 インド思想史略説
3 『タゴールの贈りもの』 こころの時代 森本 達雄
4 『生命とは何か』 ―物理的にみた生細胞― シュレーディンガー 岡 小天ほか訳 岩波文庫 青946-1 エピローグ
5 『身体の宇宙性』 湯浅
泰雄 岩波書店