電脳経済学v3> aご案内> a70コメント集> ct05 コメント5

C5−1:先日のE-mail では、誤解が残りそうなので補足します。
梵我一如を梵我に一如有り。故に梵我は一如足り得る。と読んでみます。そうすると、如とはなにかと言う事を考えたくなります。如とはあるがままのことだと言う人もいますが、私の場合はそれでは思考が停止してしまいます。如とは玄とか法(ダルマ)とかと似た、自然の原理を表すための概念を指す言葉です。自然の原理が主体性を備えている可能性があることは、その現象的な表現が人間の存在となっているのかもしれませんし、より超越的な存在を考えなくてはならないのかもしれませんが、可能性として、とりあえず仮定しておきます。宇宙全体と一人の個人がこの如(理でも玄でも法でもどういう呼び方をしてもいいのですが)を共有することで通底している可能性を梵我一如と言う言葉は示していると言うのが私の解釈です。(歴史的な出自は違うことを示しているかもしれませんが、あえて誤読してみたらと言うことです。)
この如とか玄とか法とか言う概念が何なのかに興味があって、それについての光延さんのコメントを聞きたかったこともあり、’結論はあるがままを認めること’に対して拙い批判を試みてみました。どうぞ、非礼をお許し下さい。


R3−4;R5−1:「梵我一如」は電脳経済学の鍵概念であるとともに結論となるものです。『壁を乗り超える自分学』 p243(紫色部分)にも記しましたが「自他一体」「万物斉同」「神人合一」これらはみな基本思想としては同義だと思います。「梵即我」「梵不異我」「慈悲」「般若」なども同じです。ただ電脳経済学で用いた梵我一如の場合、第一義的に梵には存在を我には認識を対応させています。そして第二義的にはこれを反転します。これを論理的でないと指摘されれば私は黙るだけです。

一如を玄ないし法と読み換えて、それに梵と我を容れる。あるいは、梵と我を一如の通底関係から捉える。これらもやはり同じだと思います。何もかも同じになって申し訳ないのですが「荘子」のいう「万物斉同」あるいは「万物春」とはそのような境地を指すものと思います。つまり宇宙が万物を意味するのであれば、法も神も自然もそして我も同じ内容の別の表現だと思います。宇宙が時間と空間を併せた全体を指す用語であれば、それはビッグバンの一点に収束するわけで、ここでエルゴード性の考え方が役に立つかも知れません。つまり一旦ビッグバンに立ち還れば、どこにでも到達可能な道理になります。こうなると妄想の世界なのかも知れませんが、自傷他害がなければそれも構わないと思います。ついでに申しますと、これは絶対自由、絶対平等、絶対愛の領域とも言えます。これを中立と呼んでも中庸としても同義だと思います。

御指摘の「自然の原理が主体性を備えている可能性があることは、その現象的な表現が人間の存在となっているのかもしれませんし、より超越的な存在を考えなくてはならないのかもしれませんが、…」に関しては、e24梵我一如にある「人間は宇宙の自己認識だ」との記述と符合すると思います。より超越的な存在を考えるか否かは、神をどう定義するのか定義不能とするのか宇宙と同義とするのか、さまざまな主張があると考えられますが、これも思想の自由に関する領域ですので本人自身が納得出来ればそれでよいのではないでしょうか。思想や宗教や哲学はそれ自体が目的ではなく、自己実現に至る単なる方便に過ぎません。自他表裏一体が世界本来の姿のように思われますが。