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(最終更新日:2000年07月23日 )

C12-1:斬新な経済学の切り口に驚かされました。学校で教わっている経済学だけじゃないと実感しました。ところで、聞きたいのですが、松下幸之助の考え方を元にこれからの日本経済をどうすればよいか?参考ながら聞かせてくだいさい。

C12-2:銀行に勤務しています。仕事柄経済学や経済政策が大変身近に感じられ、また経済学の基礎理論の部分に疑問を持っています。自分なりに経済学を仕事の合間に再度勉強し直してホームページ<http://www5a.biglobe.ne.jp/~nozo-mu/>にまとめました。光延さんの考え方とは、また違った角度からの考え方になるかも知れませんが、経済学の基礎理論を自然科学的な発想で考え直すことについては共通していると思います。ご意見など頂ければ幸せです。


R12-1:R12-2:内容的に共通し、かつ関連しますので併せてお答えいたします。

R12(1):経済学の切り口
C12-2コメンテータのホームページ冒頭に”・・・・複数の見解が基本理論の部分で存在することは物理学などでは考えられない。現在の不況に対する有効な経済政策もさまざまな意見が存在し、・・・・、投入した経済規模に対して経済的効果は甚だ乏しい。これは経済学が未だ科学性・論理性において完成されていないことに起因する。”とあります。

まったく、その通りだと思います。私は灌漑技術を生業としてきましたが、当然のこととして技術と経済は車の両輪のように相互に関連しています。したがって、経済学に関するある程度の知識は職業上どうしても要求されます。(例えば水1立方メートル当り何円の費用をかけてよいかなど。)この文脈から経済学の門を叩くとき、経済学関連の図書文献の膨大さ、多様な基礎理論の並存、不毛な論争の繰り返しなどにうんざりします。例えば理論経済学会と経済理論学会の違いは、当事者にとっては常識ですが、世間の常識ではとても理解できません。この状況は、むしろ分裂状態と呼ぶべきです。これは、経済学に普遍的な基礎理論がないからです。

なぜそうなるのか、私なりの答えは簡単です。論語読みの論語知らずの例えのとおり、経済学者やエコノミストが経済の実務を疎んじて経済現象の本質を理解していないからです。それは「交換」の一語に尽きます。交換とは、商品(貨幣との交換を前提に生産された物財・サービスを指す。)と貨幣の所有関係が入れ替わることです。電脳経済学ではこれを「共役的写像関係」として捉えます。ここに共役的写像関係とは、商品と貨幣が相互に対象を写し出す関係にあることを指します。古来、経済学では「貨幣の謎」として貨幣の本質解明を避けてきました。貨幣の本質「商品情報の担体」としての機能にあります。情報の担体とは画家とキャンバスの関係に相当します。作家と原稿用紙でも同じです。それがなければ自己が表現できない。主体を対象化できない。逆に言えば、対象を評価できない。この相互関係の帰結として、情報の担体がなければ自己実現不能の状態に陥ります。つまり、経済の本質は情報の交換に外ならないのです。

アダム・スミスは『国富論』のなかで、交換は「人間の本性」として軽く触れています。聡明な人は「人間の本性」解明などに深入りしない、それ故に『国富論』が完成したとも言えます。『国富論』は現代風に言えば「国家経済政策大綱」とでも呼ぶべきものです。その後の経済学の歩みは割愛しますが、本質という錨がないので現象面での漂流状態が今日まで続いています。その結果、各種の経済問題群は地球規模に拡大するとともに生命系の存続までが危機に曝されています。それは今日、「環境問題」あるいは「南北問題」という形で経済学関係者に差し戻されています。因果は巡るの感を深くします。

R12(2):松下幸之助さんの考え方とこれからの日本経済
松下幸之助さんには、私も関心があって著書なども拝見しています。なぜ経営の神様と呼ばれたのか、若いころ病床に伏しながら人を使う術を体得された、と私は理解しています。つまり、松下さんは社員の心と社会の状況を雇用関係を軸として統合的に捉えられたように思います。創業経営者は24時間中、身辺の出来事が会社の発展に結びつかないか真剣に考えを巡らしています。私企業のオーナーは、社業に関しては隅々まで自分の体のように感じるものです。しかし、企業の規模が個人では管理できないほど発展して来れば、規則を作って組織的に運営することになり、一般的に株式も公開されます。この意味から松下さんは私経済の分野における経営のプロでした。

一方、日本経済は公的機関によって制度的に運営されます。つまり、松下さんに該当する統一的な意志ないし集中的な権限を持った人がいません。これは公経済の性格によるものです。制度面の不備や本人の社会的立場と職業的能力のミスマッチなどもあることは確かです。さらに大切な点は、経済あるいは資本とは本来無政府的な性格を持つと言う事実です。加えて公経済は、生産部門のみならず消費部門や分解部門にも責任があり、むしろこの部門間の調整ないし非私経済の分野を対象としています。したがって、この文脈から松下さんと日本経済の結びつけは困難なように思います。もっとも、私が松下さんの考え方の真意を理解していない恐れも多分にあります。

ちなみに、ダイヤモンド社のハーバード・ビジネス誌においてポール・クルーグマン教授は次のように述べています。国家は企業ではない。国民経済はネガティブ・フィードバック、企業経営はポジティブ・フィードバックである。国家はクローズド・システムであり、企業はオープン・システムである。よって、経済政策と経営戦略を同一のロジックで考えてはいけない。複雑系のフレームワークが求められる理由はここにある。

R12(3):理系思考の経済学
コメントやホームページで述べられている通りです。コメンテータと私の唯一の違いは年齢です。将来ある若者と時間に限りがある老齢者の関係です。ドイツの文豪ゲーテは晩年に、若いときに今の知恵があれば、と嘆いたそうですが、それは欲張りと言うものです。私は、それが社会の進歩であり結構なことだと受け取っています。

経済学はこれまで社会科学の一分野だとされてきました。しかし、近年の風向きはコメンテーターのご指摘のとおりです。金融工学、価値工学、危機管理、情報技術(IT)、国際会計基準などの経済用語がそれを物語っています。経済学は、その領域を拡張して経済科学と呼ばれるべきであり、コメンテータによる「理系思考」も同じ文脈と思われます。

マルクスに物理学の知識の片鱗があれば、その後の社会も違っていただろうと言った人がいます。事実、経済学はアダム・スミス以来つねに物理学を目標にして来ました。それは単純な法則から政策や計画を導き出す。あるいは、すっきりした基礎理論に基づき経済現象を説明をしたい、とする願望です。これを物理帝国主義と批判する人もいますが、自然科学の知見なしに技術文明は成立しません。技術の進展なしに経済の発展もありません。この意味で経済学関係者はもっと謙虚に自然科学の方法論について学ぶべきだと思われます。

話がそれましたが、ホームページの「景気変動」についても私はご指摘の2つの要素(慣性と安定化)を、それぞれ熱力学第1法則並びに熱力学第2法則と呼んでいます。両者は力学の用語で言う保存法則と運動法則に相当します。私の主張は、これらの考え方が社会会計として共通しているし、環境問題とも絡んでくると言うものです。このことについてはコメント11でも述べていますので参考になさって下さい。