電脳経済学v3> f用語集> te 哲学 (philosophy) (当初作成:2007/04/12)(一部修正:2007/06/07)(一部追加:2007/08/29)(一部追加1.(9):2007/10/16)(一部追加1.(10):2007/11/02)(一部追加2.(1):2008/01/14)(一部修正:2008/02/01)(一部修正:2008/05/20)(一部追加1.(11):2008/05/30)(一部追加1.(12):2008/06/09)(一部追加1.(13):2008/11/18)(一部修正/追加:2009/10/07)(一部追加:2010/02/12)(一部追加3-2:2011/05/05)(一部追加1.(17):2012/01/17)(一部追加4.(7):2016/06/01)
1.定 義
(1)理性的思考を通じて様々な根源的主題について論じる学問分野。この立場は畢竟するに形而上学を巡るアポリア状態に陥る。
(2)人生と世界の成立ちを巡り根本原理の追求を通して統一的に理解・把握せんとする学問。
(3)諸科学の基礎づけを目指す学問。
(4)その人の経験に基づき築かれた社会関係を巡る基本的な考え方。
(5)存在と認識を基本として組み立てられた考え方。(電脳経済学の主張で梵我一如と同義)
(6)根本問題を提起するも必ずしも結論を求めない学問。
(7)論理・倫理・美学から構成される学問。
(8)メタ論理学をもって世界を記述する学問的な立場。
(9)人間学/人間科学の別名でその枠組み提示に専念する科学。
(10)部分知から全知への接近について考える人間の知的な営み。
(11)自己同一性を巡る収斂的な問いかけ。(自己確認)
(12)範疇を提示し展開する学問。
(13)基礎概念を定義する科学。
(14)考え方の整理方法を提示する学問分野。
(15)
「梵我一如」の説明可能性を「宇宙原理」と「人間原理」の統合文脈に求める問題。(一部追加:2009/10/07)
(16)証明不可能な根本真理に対する人間の態度表明。(4.参考資料(9) p053)
(17)抽象化を通して世界に基礎づけを与える学問。(例えば「私」「時間」「数」‥とは何かなど)(追加:2012/01/17)
2.説 明
上記の定義に沿って説明を加える。(1)はウィキペディア、(2)-(4)は広辞苑、(5)は電脳経済学の主張、(6)以降は出所を問わず筆者の考え方。
(1)”理性的思考を通じて”とは西洋哲学史の文脈を踏まえてを意味する。つまり、ギリシヤ哲学の展開を基調とするが、この場合にヘブライズムとヘレニズムがそれぞれ目的論と方法論の対応関係にある構図を念頭に置く。これは時系列的に「神」を「存在」に置き換える道筋(sequence)を辿り、現代は「科学」に準拠して「生命系」を「環境系」の用語法で説明し目的化する「系」の時代といえる。”様々な根源的主題”の具体例を次に示す。【 】はしばしば形而上学的な対象となる主題。【真(理)】、善、美、聖、愛、【神】、霊(魂)、【宿命】、死、【存在】、認識、意識(心)、知識、価値、贈与、交換、犠牲、物質、運動、変化、発展、進化、行(ぎょう)、【時間】、空間、【主体】、【物体(系)】、無、空、零、原点、無限、基準、本質、【形而上学】、【自由】、理性、論理、言語、【幸福】、【正義】、法、倫理、自然、生命、宇宙、社会、文化、秩序、【普遍】、【必然】、【可能】、法則、因果、目的、方法、【自己(同一性)】、自他、本能、性差などからなる抽象度が高い概念。これらを巡る定義、性質、関係、立場、見解の整理。これを立場や見解から区分すれば次のようになる。分析哲学、言語哲学、自然哲学、科学哲学、物理哲学、論理哲学、宗教哲学、歴史哲学、価値哲学、生命哲学、政治哲学など。なお未実証科学つまり仮説体系はプロトサイエンスと呼ばれるが、哲学はさらに上位の包括的な思考枠組み設定を目指しその定義域に制約を設けない。この自由闊達な発想は想像、妄想、幻想との境界を不明確にし、この基準系の規定不能性がしばしば揶揄の対象になるが、この場合はむしろ思想と呼ばれる。
(2)人生観や世界観を巡る原理的な考察を指す。例えば人生と世界の前後関係や因果関係は卵と鶏の関係のように一概に言えないが、やはり考えないわけには行かない。これは人生の意味あるいは個性化の過程を求める立場である。
(3)どのような学問分野であれ根本問題に遭遇してその本質解明が求められることがある。その時すでに哲学の門をくぐっている。しかし別の門から出ないと期待した結論は得られない。山で道に迷ったならば山頂に登れというように全体性と根元性を究めようとすれば哲学の広場に出るほかない。こうして下記(4)との絡みで哲学は不可避的に個人学際から自己救済の経路を辿る。しかしこの場合でも社会性は(5)によって担保されている。これが筆者の見解である。
(4)この立場は独我論と呼ばれる。しばしばエゴイズムと混同され誤解を招きやすい用語法である。その人なりに首尾一貫性が確保されていて自身の人生に責任を持って臨めば他者の余計な口出しは無用である。一方、丸反対の考え方として完全に依存的な生き方あるいは確信的に偽善を貫徹する立場もあり得る。いずれにしても、その人が納得していればよしとする立場を指すが、他者に及ぼす迷惑の程度に対する社会規範の許容範囲は時代と場所に応じて様々である。自己犠牲、自他問題、母子関係などが妥当性に検証基準を与える。
(5)存在と認識については本サイトの随所で言及しているので繰り返しを避けて結論は次の通りとなる。存在とは宇宙と同義であり認識とは自分自身を指し、両者は表裏一体の関係にあり、これを「梵我一如」と言う。このマクロコスモスとミクロコスモスの対応関係に気づくべきである。なお他者問題は本項の文脈において解消可能であり、これは前項(4)に矛盾しないと考えられる。
(6)哲学それ自体に何の成果も求めない態度である。これは真理の追求に専念する立場で価値自由(没価値性/価値中立性)とも言われ、この脈絡を辿ると哲学は「無用の用」の学問となる。だが現実的な効用として哲学から「示唆」を得ることは出来よう。なぜなら哲学が全体的・根元的・理性的なマクロ概念を探索するのに対して現実問題は部分的・現象的・感情的なミクロ対応が要求されるからである。ここで「示唆」とはマクロからミクロへの絞り込みを指し、これは「着眼大局、着手小局」
(Think globally, act locally) とも呼ばれる。この逆は次項の帰納的推論に相当するがデータ/経験の制約から通常は成立しにくい。
(7)(8)哲学は論理・倫理・美学に区分され、この三者は普遍妥当な価値である真善美に対応する。認識上の真は倫理上の善との統合を通して社会的に有意となり審美上の美は両者結合を巡る調和的感性を指す。この文脈から論理学は科学の基礎をなすとともに哲学の中心命題である。事物間の連鎖関係を巡る妥当性の吟味を推論と呼ぶ。推論には帰納的推論と演繹的推論があるが通常は後者を指す。アリストテレス(Aristotle:
BC384-BC322) に始まる論理学はこの演繹的推論の体系化を目指してきた。ちなみに演繹的推論とは前提を認めたら必ず結論を認めなければならない導出を言う。これはまた主語と述語との関係が必然性をもつことから必然判断とも呼ばれる。連鎖関係のなかでも隠された連鎖(ji3-5(17))に対する感性は潜在意識や夢さらには啓示や霊感とも通じて意味深長である。
西洋哲学はこのように首尾一貫した論理性の追求を通して成立した。東洋思想やインド哲学に見られない厳格な論理性は一方で方法論としての科学の形成に根拠を与えた。蛇足ながら次の理由により数学は論理学の部分系である。ゲーデルの不完全性定理が数学の公理系は不完全としたのに対して論理学は完全な公理系を示せることが証明されている。数学は自然数を対象とするので完全性に限界があるが、これは数学の可能性に限界があるという意味ではない。さらに言えば物理学と数学の境界はパラメータの有無にあり超ひも理論はこの文脈から最も数学に近い物理学である。これが論理学に包摂されるか否かはなお課題が残り、この意味で究極理論とは言えない。批判を覚悟でさらに付け加えれば宇宙史遡及の文脈において量子論と意識(心)の対応関係を認めるならば超ひも理論と霊魂の対応関係も同様に成立すると考えられる。これは下記3.考察に記す「神我系」の完結可能性を示唆しかつ永劫回帰説の今日的な表現ともなる。
(9)人間学はanthropologyの訳語であるが、anthropologyには通常人類学の和訳が当てられる。なお人間科学はhuman
scienceと呼ばれ、より学際的・総合的な色彩が濃く近年この学部を新設する大学が増えている。哲学は人間学の部分系か、その逆の関係か、両者はどのように重なり合うのか、人間学ではなく人間論ではないか、などの詮索はさておいて、下記の3.考察に示す通りあるべき人間像が歴史的に神(または佛)との関係から位置づけられてきた事実は疑う余地がない。ちなみに電脳経済学の最終目標である梵我一如は宇宙科学と人間科学の統合過程のミクロ版を指し個人レベルではこの方が火急の課題である。ここでは参考までに『壁をのり超える「自分学」』における人間観を例示する。なお自分学とは独我論的な人間学つまりその人なりの人間観を指し、ここに示す『自分学』は筆者の事例紹介に過ぎない。
(10)
全知全能とは神の別名である。人間は神にはなれないが接近しようとする意思は持ち合わせている。これは完全性を目指す人間の営為に相当し、この文脈を辿ると目的論は究極的に神に収斂していく。ここから神と人間を巡る次の諸関係が成立する。つまり目的としての宗教並びにそれに対応する方法としての科学さらには時間的な記述/解釈としての歴史やこれらを統合的に扱う哲学が生まれる。ここで神と人間の関係はマクロとミクロに対応するか否かが問われる。さらに神と宇宙が置き換え可能か否か、もしそうならば唯心論と唯物論も統合的に説明可能となる。この場合に超ひも理論が鍵概念を与えると考えられる。あるいは量子論のさらなる解明が先行すべきかなど措定すべき論題は尽きない。
(11)”自己同一性を巡る収斂的な問いかけ。(自己確認)”とは「設問」に力点を置いた自問自答を指す。参考までに次に幾つかの事例を示す。「今なすべきことは?」「私は一体何者か?」「どこから現れどこへ向うのか?」「この世に何をしに来たのか?」「私はいつ何で死ぬのか?」「普遍的な真理や考え方があるのか?」「自然や社会の作動原理は?」「自己同一性を基軸とする同心円的な関心領域をどのように整理すべきか?」 これらはつまるところ「現在の私にとって最も優先すべき課題は何か」という問いかけで、これは「毒矢のたとえ」に明示されている。したがってそれは不可避的に独我論となり過去の哲学は他者問題として組み込まれる。他者問題とは自分との係りの範囲内でしか責任がとれないという意味である。この帰結において哲学は本人の自作
(Custom-made way of thinking) となり自分で考え抜き工夫するほかない。ちなみに前出の独我論は「天上天下唯我独尊」と同義になり、これは同時に多世界解釈を意味する。これらの文脈は本サイトにおける梵我一如や一人一世界の用語法と符合する。
(12)範疇は日常語としては部門の意であるが哲学用語としては根本的概念/最高類概念の意として用いられる。アリストテレスは述語の形式として実体、量、性質、関係、場所、時、位置、状態、能動、受動の10個の範疇を挙げた。(アリストテレスの10範疇) スコラ哲学では存在、質、量、運動、関係、習性の6つの範疇が、デカルト、ロックでは実体、状態、関係の3つの範疇が、カントでは判断を中心として4綱12目の範疇が導出された。その後のヘーゲルからウィトゲンシュタインに至る範疇問題は実在の論理形式から分析哲学の方向において展開する傾向にある。このように範疇問題は哲学を巡る思惟形式ないし思考枠組みに相当する。現代の範疇問題では生命史を含む宇宙史の文脈が要請されよう。なお本サイトでは「物質・エネルギー・エントロピー・情報」をセットとした総称である「物理要素」が範疇に対応する。ここで上記の諸範疇は情報に包摂されかつ情報ビッグバーン概念の導入により宇宙史との結合可能との見解をとる。IT用語で言うユビキタスは情報ビッグバーンが今日的に展開された姿を表現する概念で両者はそれぞれ圧縮と展開(解凍、伸長ともいう)の関係にある。
(13)概念と範疇がほぼ同義とすれば上記(12)と同じである。定義は分類を、分類は分析を、分析は方法をと連鎖関係を展開したり収束したりを繰り返す作業自体が哲学にほかならない。真理と妄想の境界や有用か無用か意味の有無などをいちいち気にしていたら哲学は成り立たない。これらは睡眠中に無意識裡に整理されて往くので自らを信じてそのための条件整備に専念すればよい。哲学は各人固有である外なく科学としての哲学はあくまでその素材である。私たちはソクラテスのようにもデカルトのようにも成り得ないしなる必要もない。私は私であればよい。これが真の独我論(唯我論ともいう)だと思う。
(14)
「考え方の整理方法を提示する学問分野」は1.定義をあえて纏めて表現した事例である。現代哲学は哲学史が総括された姿と言えるが、それは反哲学であり哲学の否定となる。これは厄介な問題である。なぜなら否定の対象となる哲学が先ず定義される必要があるからである。これは同義反復であり当初の哲学自体に風孔/アンカーが埋め込まれていないと取り付く島がない。これが次項で示す科学である。注目すべきは目的論が方法論に還元されてしまう点である。途中を割愛すればそれは熱力学により定式化された「非可逆性」と「可逆性」の境界領域である。
(15)「梵我一如」の説明可能性を「宇宙原理」と「人間原理」の統合文脈に求める問題。アインシュタインとタゴールの対話(例えばタゴールの贈りもの)は「梵我一如」に接近しながらも結局はすれ違いに終わっている。何故なら両者共に立場のせいか相手を理解しようとしていない。結論的に「宇宙原理」と「人間原理」はそれぞれ重力と煩悩を巡る”場の問題”に還元可能と考えられるが、その前に存在と認識の関係(e24-3)が整理される必要がある。(一部追加:2009/10/07)
3.考察と結論
哲学史はデカルト(Rene
Descartes: 1596-1650)を変換点とする「神我系」の時系列として通観出来る。「神我系」とは「真善美」にあやかった造語で三者は「宗教-哲学-科学」に相当する。あるいは神我を統一的に捉える考え方としてもよい。宗教と科学にそれぞれ目的論と方法論を対応させれば哲学は両者を媒介する位置づけとなる。
さらに超ひも理論/量子論とメタ論理学の結合により哲学は必然的に完結に向うのか。多様な価値観が対立的に混在しかつ環境問題に苦悩する現代地球社会からの要請に応え得る哲学体系の構築が期待される。その一方、むしろ自己救済が先決か、選択が自由なのか、混迷即哲学か、先決問題要求の虚偽か、これらを整理すべきか否か、やはり分からない、それとも、もともと結論は不要なのか?
3-2.前項に追加(2011/05/05)
前項で「神我系」とは「真善美」にあやかった造語で三者は「宗教-哲学-科学」に相当するとした。しかしこれは筆者の不明によるもので、この考え方は「三段階の法則」としてオーギュスト・コント(Isidore
Auguste Marie Francois Xavier Comte;1798- 1857)によってすでに提唱されている。コントは「実証哲学講義」などの著作によって知られるフランスの哲学者、数学者でありかつ「社会学」の創始者である。参考までにWiki抜粋による「三段階の法則」を次節に示す。
三段階の法則とはあらゆる概念や知識が三つの段階を経ることを論じたものである。コントによれば人間の精神はこれまで神学的段階、形而上学的段階を経て実証的段階となり、これら段階はそれぞれ特徴的な思考様式を持っている。まず神学的段階ではあらゆる知識は宗教的、神学的な観点から直接的な意欲によって説明される。形而上学的段階では抽象化と人格化が行われ、客体として説明されている。そして実証的段階では事物の観察に基づいて現象は一般的法則によって説明されるのである。このような段階を経て新しい人間の知性の発展段階を捉えた上で、コントは科学の分類を行う。コントはこの分類が諸現象の比較によって求められた一般的な事実の表現であることが必要だと考えていた。コントは序列化によって第一に数学、第二に天文学、第三に物理学、第四に化学、第五に生物学、第六に社会学を据えた。ここでの社会学はコントが初めて呼称した呼び方であり、社会学は秩序としての社会静学と発展としての社会動学があり、前者は有機体としての社会を研究し、後者は三段階の法則に従って発展してきた社会発展を研究する学問と位置づけている。社会発展についてコントは神学的段階では社会は軍事的段階にあり、形而上学的段階では法律的段階、実証的段階では産業的段階にあると考えていた。
コントはまた近代実証主義の祖として「形而上学」を世界の「根本原理」と「究極原因」を探求する学と定義した。形而上学に批判的な彼の思潮は反哲学を掲げる現代思想の旗印となっている。因みに筆者の立場は無記すなはち中庸である。これは「あちらからこちらを見るか」「こちらからあちらを見るか」の違いで前者は宇宙論として後者は人間原理/独我論として提示している。両者の統合が蝶夢でありその結論が無記となる。ここで無記とは多様性の承認ないし万物肯定を指す。平たくいえば何でもありでありああそうですかとなる。
4.参考資料
(1) 哲学 (Wikipedia)
(2) 哲学関係ホームページ/サイト
(2)-1村のホームページ
(2)-2 真の哲学体系を求めて
(2)-3 思想家辞典
(2)-4 知の快楽
(3) 『岩波
仏教辞典 第二版』 中村 元ほか 岩波書店
(4) 『岩波哲学・思想事典』 廣松
渉ほか編 岩波書店
(5) 『図説・標準 哲学史』
貫 成人著 新書館
(6) 『入門!論理学』
野矢 茂樹 中公新書 1862
(7) 『心という難問』 空間・身体・意味 野矢
茂樹 講談社 (追加: 2016/06/01)
(8) 『量子力学の解釈問題』 コリン・ブルース著 和田 純夫訳 講談社 BLUE BACKS B-1600
(9) 『カントはこう考えた』−人はなぜ「なぜ」と問うのか
石川 文康 ちくま学芸文庫 イ39-1
(10) 『形而上学レッスン』 存在・時間・自由をめぐる哲学ガイド アール・コニー+セオドア・サイダー
小山 虎 訳 丹治 信春 監修 春秋社
(11) 現代思想の冒険者たちselect 『デリダ』 脱構築 高橋 哲哉 著 講談社