1.梗 概:
<1>物事の現在に至る来歴並びにその解釈。
<2>人類社会の過去における興亡・変遷の記録。
<3>時系列による世界記述。(マクタガートのA系列)
<4>過去の出来事を巡る前後関係の記述。(マクタガートのB系列)
<5>統合過程としての歴史は現実。(時間順行)
<6>総括過程としての歴史は無記。(時間逆行)
2.論点説明:
(1)上記<1><2>は一般的定義である。歴史について語るとき念頭に置くべきは、歴史には「事実としての歴史」と「解釈としての歴史」の両面性がある点である。これは歴史の両義性あるいは歴史の二重性ともいわれる。先ず「事実としての歴史」は過去の出来事を巡る客観的な記録としての歴史を指す。これは「『存在』としての歴史」に相当する。留意すべきは記録といえども人間による意識や意思の産物であり厳密な意味での「事実」や「存在」は成立しない点である。
次に「解釈としての歴史」は過去の出来事の主観的な叙述としての歴史である。これは「『認識』としての歴史」に対応する。歴史小説はその典型であり書き手は自身の歴史認識を読み手に伝える。したがって「解釈としての歴史」はその人の歴史観なり世界観つまり「思想」を表現する。この立場は物語的歴史記述あるいは物語論とも呼ばれ自己同一性への帰趨がその狙い所となる。上記1.<6>の総括過程あるいは時間逆行の真義はここにある。聖書、仏典、神話、民話なども物語的歴史記述に属する。
事実を歪曲して歴史を正しく認識していないと人はいう。立場があれば人間は思想から自由になれない。同時に立場がなければ人間は生きて行けない。この種ジレンマないし思想的バイアスをイデオロギーと呼ぶ。この事実と思想矛盾の関係解明に際して歴史は全知全能そのものである。
(2)上記<3><4>はマクタガートにより設定されたA系列並びにB系列に対応している。マクタガート(John McTaggart Ellis McTaggart: 1866-1925)はイギリスの哲学者でヘーゲル研究や時間の非実在性を主張した時間論で知られる。短くいえばA系列は一方的かつ物理的な時間の流れを指しB系列はある出来事を前後関係から説明する方法である。あえて生々しい事例を挙げれば尖閣諸島問題はA系列であり尖閣諸島中国漁船衝突事件はB系列に当たる。両者の違いは「中心点のとり方」の違いにある。中心には時間の中心と空間の中心があるので歴史は地理と不可分の関係にある。因みに中心とは主体を意味する。なおこれらは国家や主権に先行する。
(3)上記<5><6>は電脳経済学の立場である。電脳経済学は梵我一如という考え方を最終目標に掲げている。梵我一如とは、存在と認識の一体化あるいは宇宙と自分の同一視を意味する。現在の瞬間を中心点にして、この未来系を反転して過去系をスキャンする。人生はこのフィードバックの繰り返し過程である。ここに未来系とは認識であり過去系は存在である。そうすると未来系の描出が可能になる。なお文脈依存性とはある事象が過去系の一連の事象と対応関係にあるとする主張である。さらに蝶夢とはこの通時関係の再現状態を指しこれはバックキャストとも呼ばれる。
宇宙開闢は137億年前とされる。宇宙開闢はまたビッグバン(大爆発)とも呼ばれ物質創成の瞬間を指している。宇宙膨張説によるとその後宇宙は膨張を続け今日に至っているという。現在の宇宙の姿は図ct03-2ミンコフスキー時空として表現できる。因みに宇宙の寿命は700億年とされる。さてここで次の仮説を導入する。物質と情報が硬貨の表裏の関係にあるとすれば「ビッグバンは情報創成の瞬間」でもある。この仮説から何がいえるか。短くいえば宇宙進化の一意性である。これは「ライプニッツの予定調和」あるいは「ラプラスの矢」さらにはアインシュタインの「神はサイコロを振らない」という立場と共通する。決定論、機械論、必然論、運命論など表現はさまざまである。誤解を避ければ、この立場は方向性を示すもので実現可能性を問うていない。船乗りは北極星により針路を定めているが到達は目指していない。結論的に歴史との関係は次のようになる。全知について考えることはよりよき部分知を狙うものであり全知になるためではない。歴史との絡みにおいて哲学や宗教は意味深長である。
(4)<5>にある「統合(時間順行)過程としての歴史は現実」も前記と同じ文脈になる。日常用語でいう発展は、分岐点まで遡源してまた戻らない限り分裂状態で終わる。この繰り返しを通して日常的な分裂状態から統合過程へ向かう。個人では本人の記憶が社会では共有化された記録がこれに拠り所を与える。仮にビッグバンにまで遡源しても現在と関連がない限りそれは迷妄に過ぎない。<6>にある「総括(時間逆行)過程としての歴史は無記」が歴史哲学つまり因果論の結論となる。哲学的人間学を提唱したドイツの哲学者シェーラー(Max Scheler: 1874-1928)はこれを「統一された一つの精神」と表現した。ビッグバンは物質ビッグバンのみならず情報ビッグバンをも指し示す。梵我一如の真義はこの両義性にある。この主張は未実証仮説あるいは未科学と呼ばれるがこれも一つの歴史解釈である。
3.参考文献:
(1) 『哲学事典』
林 達夫ほか監修 平凡社
(2)
『歴史の哲学』 貫
成人 勁草書房
(3) 『時間様相の形而上学−現在・過去・未来とは何か』
伊佐敷 隆弘 勁草書房