電脳経済学v6> f用語集> etc 倫理 (Ethics) (当初:2011/08/09、全面改訂:2011/08/28、一部追加:2013/01/25)
図etc1 倫理(ミクロ) |
図etc2 倫理(マクロ) |
1.梗 概:
(1) 哲学は論理・倫理・美学から構成される学問とする。(te哲学1.定義
(7))
(2) 本サイトではとりあえず論理と倫理を対義的に捉える。(図etc1倫理(ミクロ)並びに図etc2倫理(マクロ)参照) この文脈のもとで倫理は沈黙や無記とも通底する。(witウィトゲンシュタイン2.(2)A)
(3) 論理と倫理の関係は下記のように宇宙と人間の関係に対応する。この関係は将に梵我一如の本義にほかならない。
(@外的世界:対象としての宇宙存在⇒論理
)⇔(A内的世界:主体としての人間意識⇒倫理)
@ ここで外的世界とは対象としての「宇宙」存在を指す。これは「論理」整合性/普遍性の文脈で総括できる。
A 内的世界とは主体としての「人間」意識を指す。上記@の論理は図etc1のようにidt自己同一性を保ちながら倫理に集約される。ここでいう倫理は本人を本人たらしめている尊厳性つまり余人をもって代えがたい本来性を指す。それは本人がいま・ここに生きている事実に必然的に付随する意義や運命などの本源的な認識能力を指し平たくいえば適切な見当識に相当する。
(4)
前期ウィトゲンシュタインによれば論理的に語り尽くせないことについては「沈思黙考」あるのみとなる。つまり「愚者は語り賢者は黙す」となるか、「知識から知恵へ」の果てに哲学者はセラピストに変貌する。
(5) なぜなら具に心眼に映る世界は「須らくなるべくなっている」からである。これが筆者による後期ウィトゲンシュタインの理解となる。
(6) ちなみに図etc2倫理(マクロ)は図etc1倫理(ミクロ)を倒立させて円環の中にに押し込んだイメージ図である。中心にある論理は普遍的根源性つまりビッグバンに相当する。この文脈から表面の倫理は個性化あるいは自己実現の結果としての多様化された現実態を表す。これは多世界解釈と呼ばれる世界観/仮想世界である。
2.論点説明:
(1)
論理に存在や真を当てれば倫理は当為や善に相当する。これは時系列的な定位で現実から理想へ向けての人間のあるべき姿を提示している。仏教ではこの人格完成過程を成道と呼ぶ。この意識状態はキリスト教の場合は霊的覚醒に相当する。
(2) 倫理は社会的存在としての人間共存を巡る規範や原理について考究する。倫理が個人的な生き方を問い質すのに対して規範は社会的な在り方を指し示す。両者は相互に関連するとしても現代社会においては規範は倫理から形成されると見るべきであろう。なぜなら社会は個人が結集された姿でありこの逆ではないからである。つまり社会を分割しても個人とはならない点は銘記すべきである。
(3) これを整理すれば次のようになる。 社会の状況は論理が体系化された外的世界に対応する。一方の倫理は各個人に宿る信念体系であり時間文脈的に論理に先行する。つまり下記のように各人の出自や家庭さらには教育に大きく左右される。
(4) 倫理の土台は条件反射と呼ばれる「刺激−反応」の仕組みにより形成され、幼少期における親の無視や虐待が後にルサンチマンとして現れる。ここで「業(ごう)の切断」は本人はもとよりその共同体にとっても克服されるべき社会的課題となる。
3.暫定結論:
(1) 倫理は宗教規範・道徳規範・法律規範に原理や根拠を与える。メタ倫理学はこの規範の根源解明を主題とする。
(2) メタ倫理学には自然主義や直観主義など様々な立場からの根拠づけが試みられている。しかし現状は宗教やイデオロギーに代表される既成の思考枠組みを超えられない。
(3) 倫理学の成果は応用倫理学として実践の場に移される。ここで職業倫理の遵守義務は重大である。
(4) 倫理は反省や歴史過程の総括あるいは死生学からの定式化が考えられる。
(5) 本サイトでは倫理を論理普遍性の対極において捉えている。具体的にはレヴィナス哲学に近いが両者の接近経路は真逆である。
(6) 上記文脈の帰結として「運命」や「失敗」も肯定される。そこでは運命や失敗は実在せず因果律が貫徹されれば必然命題となる。歴史を可及的に通覧するとシェイクスピアがこのような無記思想の持ち主だったようである。
(7) 永生や進化を包摂するメタ倫理の措定はやはり「エントロピー生成極小化」を目的関数とする「量子脳理論」が鍵概念となるであろう。
(8) 綸言汗の如し:綸は太い糸から転じて筋道を立てて治めるを意味する。綸言は天子の言葉を指す。一度口に出した君主の言は汗が再び体内に戻らないように取り消すことができない。政治家の軽率な発言やその訂正などを戒めた格言。元を辿れば「侖」は「筋道を立てる」を表意し、ここから「論」「倫」「綸」「輪」などの真義が汲み取れる。「汗の如し」はエントロピーの法則つまり熱の流れのような不可逆性や一方性文脈を汗に喩えている。(追加:2011/08/31)
ちなみに「天子」は天命を受けて国を治める者。「君主」は世襲により国家を治める最高位の人。「君子」は学徳のある立派な人。在位者・為政者。「大人(たいじん)」は徳の高い人格者。「小人(しょうじん)」は度量や品性に欠ける小人物を指し大人の対義語である。このように社会的地位に応じて人間を評価する政治思想は人治(reign
by men)主義 と呼ばれる。一方、法治主義はその対義語となる。ここで法治主義の要諦は権利・義務・責任が正三角形状に対応すべき点にある。両者はそれぞれ倫理と論理に相当する。価値観は両者の対比を指し統合概念は無記となる。(追加:2012/10/07)
4.追加:(2013/01/25)
(1)自愛:倫理学では自分の幸福を追求しようとする自己保存の感情を指す。この自己保存の本能に基づいて自己の幸福を求める自然的性向をホッブズやスピノザは人間の行為や善悪の基礎と考えた。この文脈は倫理的に振舞えば幸福になれることを意味する。ただし自愛だけでは十分でなく同時に「他信」も求められる。この自愛と他信を一体的に捉える考え方を次の(2)に示す。
(2)自愛他信:他信は自愛を裏打ちするための筆者の造語である。愛と信は自己と他者を巡り相互関係にあるので愛は単独には成立しない。自愛の念は万人に認められるが他信の方は必ずしもそれに対応していない。身近な例を挙げれば愛と信を巡る夫婦関係は相互に非対称である。それ故に離婚やいざこざが発生する。ましていわんや社会関係においてをやで社会混乱の根本原因は倫理意識の希薄さに還元できる。因みに仏教では愛は偏愛として退けるけど一方キリスト教では愛は人類が希求すべき崇高な理想とされる。この文脈のもとで他信は科学の領域となり仏教は心の人間科学となる。
(3)自愛から自信へ: 自愛の用語は通常「時節柄ご自愛ください」と用いられ自分の健康状態に気をつけてと相手に伝える丁寧語である。経験的にも自愛の精神は健康や長寿つまり幸福に結びつく。自愛と自信は表裏の関係にあるので自愛的挙動は他者の目には自信に映る。上記を整理すると自愛⇒自信⇒(他)愛⇒他信となり自愛や自愛他信はこの流れの圧縮表現といえる。
(4)idt自己同一性: 自愛が自己同一性に結びつく概念であることはもはや多言を要しない。自己同一性については独我論、哲学、歴史、人間原理に詳述しているので適宜参照願いたい。結論は自愛と倫理が同義である点に尽きる。蛇足ながらハーグ郊外にあるスピノザの住居は筆者オランダ留学中の下宿近傍だった。
5.参考資料:
(1) 『哲学事典』 林 達夫ほか監修 平凡社 p1485
(2) 『岩波哲学・思想事典』 廣松 渉ほか編 岩波書店 p1697
(3) 『哲学ディベート』<倫理>を<論理>する 高橋
昌一郎 NHKブックス[1097] NHK出版
(4) 『
認知行動科学〔新訂〕−心身の統合科学をめざして』 西川 泰夫 放送大学教育振興会
(6) 『本当にわかる倫理学』 田上 孝一 日本実業出版社
(7) プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神(プロ倫)マックス・ヴェーバー(Wikipedia) (追加: 2020/03/18)
(8) idt自己同一性