電脳経済学v6> f用語集> slp 独我論(=一人一世界) (solipsism) (当初作成: 2010/10/22)(一部追加: 2011/02/14: 2011/10/29: 2012/01/08: 2014/07/06)
1.梗 概:
(1) 実在するのはわが自我とその所産のみであって、他我や外界などすべてはわが自我の観念または意識内容にすぎないとする主観的認識論。バークリー・フィヒテ・シュティルナーらの立場。唯我論、独在論ともいう。(広辞苑)
(2)独我論は認識論や形而上学を巡る次の哲学的な見解を指す。自分にとって存在していると確信できるのは自分の精神だけである。それ故にそれ以外のあらゆるものの存在やそれに関する知識・認識は信用できない。独我論は哲学史上一つの懐疑主義的仮説として機能してきた。(Wikipedia)
(3)広義には自己だけを重視する立場一般を指し自己中心主義や利己主義(エゴイズム)を含む場合もある。(自己中心主義一般)
(4)世界の見え方は人によって異なるけど人はその一致を願っているとする立場。この世界の多様なあり方をそのまま認めて肯定的態度で人に接し事に臨む。大筋において「随所に主」(4.参考資料
(5) )ないし事実唯真の考え方。本サイトでは”あるがまま”や一人一世界あるいは梵我一如という。(電脳経済学)
(5) 課された責務に無限に応えて地平融合の彼方に普遍世界を目指す姿勢において自己中心主義一般と峻別される。(レヴィナス)
(6) 唯我独尊は本義において独我論と符合するがこの用語は往々にして傍若無人を表す意味で誤用されている。(唯我独尊)
(7)独在性の文脈において独我論は独今論と論理的構造を同じくする。両者はそれぞれ認識論並びに存在論との対応関係から措定できる。「今、ここ、私」つまり時間・空間・主体を巡る原点との絡み(「現前性」ともいう)についてはspt時空に詳述する。(追加:2011/02/14)
2.内容説明:
先ず下記(1)に示す常識的見解から出発し、次に(2)独我論からの反論を挙げる。共にWikipediaからの引用である。最後に(3)電脳経済学の立場を説明する。
(1)客観的存在に対する常識的見解:
私たちが事物を認識するとき、何らかの客観的な事物が存在し、感覚器官を通じてその事物が意識の中に現れると考える。例えば、「私はリンゴを見ている」というとき、私の認識とは無関係に存在する客観的なリンゴがあり、私の視覚を通じて、私の意識の中に、主観的なリンゴの形や色が現れる。これが、事物を説明するにあたっての常識的な考え方である。
(2)独我論からの反論:
これに対して、独我論は、私の認識とは無関係な事物の存在を否定する。リンゴが存在するのは、私が認識しているときだけであり、私が認識を止めると、リンゴもまた消滅する(見えなくなるのではなく、存在しなくなる)。全ては私の意識の中にのみ存在し、私の意識を離れては何物も存在しない。これが独我論の基本的な世界観である。
このような一見突拍子のない発想には、次のような根拠がある。普通、私が認識しようとしまいとリンゴは存在する、というが、私はそのことを論理的には証明できない。なぜなら、認識の前に存在するリンゴを認識することはできないからである。いかなるリンゴも、私の認識後にのみ存在するのであり、認識されていないリンゴについて何かを説明することはできない。
これを言い換えれば客観的存在は主観的認識で証明できない。ここでゲーデルの不完全性定理を援用すればいかなる公理系も自身の無矛盾性を証明できないとなる。平たくいえば誰もが自分は正しいと思っているにも拘らずその正しさは証明できない。争いや世の喧騒はこの自己矛盾から発生する。この結論は「因果律の自己還元化」となる。(一部追加:2012/01/08)
(3)電脳経済学の立場:
(a) 独我論に関してはバークリー、カント、ウィトゲンシュタイン、ラッセル、フッサールなど多くの哲学者が持論を展開している。その中で筆者が注目するのはデカルトである。デカルトは「すべてが夢である可能性」を乗りこえてコギト命題に到達した。つまり認識主体としての自我だけが確かな実在とした。この意味でデカルトは独我論の元祖である。コギト命題と蝶夢の本質的相違点は宇宙の原点としての自我の規定方法にある。かくしてデカルトは二元論となり荘子は一元論となる。
(b) 電脳経済学の立場は「二元論も一元論もあり」となる。それで何も不都合はないし、むしろこの方がおおどかに息を吐くことができる。ここで発達心理学の知見を援用すれば「生きているとは変化している」ことを指し、これは「エントロピーの法則」にほかならない。筆者は「あるがまま」をこのように万物肯定として捉えている。短くいえば”包括的是認なしに総括や調停もまたない”となる。
(c) 「世界の見え方が人によって異なる」事実は誰も否定できない。レヴィナスはこれを<顔>に代表させて他者論から倫理学を組み立てた。一方の事実として「人は世界の見え方が他者と同じでありたい」とも願っている。人間に理解要求や承認願望がなければ情報交換による合意形成や選挙による民主主義も根拠を失う。”個性化による全体性の獲得”は人間本来の姿に見える。
(d) 上記を整理すれば次の結論となる。伝統的な独我論では認識以前の存在を認めないが、これは鶏と卵の論理で無限循環に陥る。生物的存在としての人間は進化の産物であり絶えず発達の過程にある。つまり人間は外界の存在を内的に認識する過程を通して学習的に自己同一性を獲得してきた。この文脈は「人間は宇宙の自己認識」あるいは人間生存は「意識拡大化」の過程とする主張と通底する。
3.追 記:
「独我論」についてはデカルトのコギト以降を巡る展開がうまく纏まらずイライラ状態が続いた。ところがある日、ウィトゲンシュタインの『論考』にある5・6「私の言語の限界が、私の世界の限界を意味する」という表現に接した。(詳細は4.(6)及び4.(7)該当頁などを参照) 私の理解ではこれはカントの超越論やレヴィナスの倫理観さらにはデリタの脱構築とも文脈を共有する、のみならず彼自身の後期から晩期に至る到達点をも含意する。論語に「君子は思うこと其の位を出でず」とあるがこれも上記5・6に文脈を同じくする。ちなみに論語は君子の弁えつまり孔子的な倫理を告げるがウイットは上述の通り前期の論理から後期の倫理までと彼の思想を端的に表す。
独我論の枠組みが「唯摩教」や禅思想の沈黙/無記と通じる点も多言を要しない。かくて私的言語は家族的類似から自己同一性までが一気通貫(むしろ九連宝燈/天衣無縫)となる。畢竟するにこれはトートロジー(つまり荘子への還元)となる。 何はともあれ、わが独我論の狙いは現前の自己(「現前性」については:上記1.梗概(7)参照)から出発して情報ビッグバーンへ至る自己同一性を巡る道筋の試行錯誤的な探索にあり、これは平たく「私は何処から来たの?」となる。(一部追加:
2011/10/29: 2011/11/19)
3‐2.さらなる追記:
因みに「slp独我論」からの展開例を下記に示す。(追加: 2012/03/17)
slp独我論 →csm宇宙→cho蝶夢→mk無記⇒spt時空
むしろwu無為自然とすべきか。(追加: 2014/07/06)
4.参考資料:
(1) 独我論 (Wikipedia)
(1)-2 心の哲学まとめWiki 独我論 (追加: 2014/07/06)
(2) ap人間原理(用語集)
(3) デカルト (用語集)
(4) 哲学 (用語集) 2.(13)
(5) 岩波文庫 『臨済録』 入矢 義高 訳注 岩波書店 p50
(6) シリーズ・哲学のエッセンス『ウィトゲンシュタイン 「私」は消去できるか』
入不二 基義 NHK出版 C3310 p24
(7)
ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む
野矢 茂樹 哲学書房 p178
(8) 『哲学事典』
林 達夫ほか監修 平凡社 p1018
(9) 『岩波哲学・思想事典』
廣松 渉ほか編 岩波書店 p1176