1.はじめに
経済学は、有限な資源を用いて、いかに価値を生産し分配するかを研究する学問である。あらゆる人間行動は突き詰めると経済行為に還元できるので経済学は総じて社会全般が研究対象になる。ここから経済学は社会科学の女王とされ、この政治と経済が不可分とする立場は政治経済学
(Political Economy) と呼ばれる。ここで銘記すべきは上記価値の尺度が貨幣として数量化可能であり、この貨幣が社会的に管理可能な事実である。この貨幣を枢軸に世界を記述する経済学の考え方は市場経済学と呼ばれる。交換性/線形性などで特徴づけられる市場経済学は現行経済学とほぼ同義である。それ故に市場経済学は現代社会を巡る各種根本問題の発生源ともなっている。
現代経済学は資本主義社会における社会制度、経済政策、通貨/金融管理、流通/貿易システム、企業組織、景気変動、消費動向など市場経済を巡る機序研究が中心的な課題である。これは価値観を与件としてつまり価値自由を前提に方法論としての科学を目指す近代経済学(Modern
Economics) の立場である。広義の経済学では、交換、取引、贈与や負債など必ずしも貨幣を媒介としない価値移転を巡る人間関係や社会活動の諸側面を研究する。このような分野は人類学、社会学、政治学、心理学などと隣接する学際領域である。さらに生態系や資源問題を組み込んだ環境経済学はかって異端の経済学と呼ばれたが近年は主流派経済学との統合可能性が真摯に模索されている。なお環境問題は資源問題のみならず南北問題や自然現象とも複雑に絡み合うのでその実相は経済系の問題領域を超えて現代人類社会が克服すべき共通課題となっている。この包括的文脈は”地球生命系を巡る持続可能性”の用語法で表現される。
また、労働、価値、階級、歴史などはしばしば哲学/思想的考察の対象となるが経済系との重複領域は経済哲学あるいは経済思想として取り扱われる。アダム・スミスは主著『国富論』において現行経済学の原型を体系的に理論化したので経済学の父と呼ばれる。ちなみに邦訳当初の経済学は理財学の訳語が当てられた。なお経済学者の年表は近代史上の主要人物末尾に示す。(この項はウィキペディア:経済学から一部引用)
2.経済学の捉え方
経済学の捉え方には幾つかの視点があるが大きくマルクス経済学と近代経済学(ケインズ経済学/マクロ経済循環)に区分する方法は日本では今日なお広く受け入れられている。前項に示すように両者の顕著な差異は価値観を内部に組み込むかはたまた外部に置くかの違いである。前者は意思統一や体系化に困難を伴い、後者も身分世襲や資産継承を巡る深刻な問題を孕んでいる。
ところで両者が共に考察の埒外とした環境問題並びに格差問題などの経済問題に関しては両者共に絶望的なまでに無力である。なぜなら伝統的な経済学は無限に広がる平面地球を前提とする資本の論理に準拠して先進工業国を中心に成立/発展してきたからである。これら問題の対象領域である価値論や歴史観はむしろ生態学あるいは人類学の問題領域でありここまで遡及/拡張した上での再規定が求められる。したがって経済社会の実態から乖離した経済学はパラダイム論的に未だに天動説段階を徘徊している。
自明の事実として人類系は生態系の部分系でありこの分野は自然人類学の範疇に属する。次に文化人類学が特定されさらに経済人類学に進むとき「人間は経済という生活様式により生存を獲得している」との命題に到達できる。本サイトでは前記命題へ至る文脈を踏まえて経済学の出発点を「人間の生活様式としての経済」に求めている。その次の段階でやっと「熱力学と食物連鎖過程」が現れ、その後は現行経済学の知見を援用して一気呵成に経済系の枠組みが定式化できる。課題が難問であればあるほど前提/与件を遡った整理が要請される。さもないと議論は不毛に陥り結果は徒労に終わる。
3.経済学の課題と今後の展望
上記論点を整理すれば次の通りとなる。
(1)経済格差は知識格差の反映であり両者は相互関係にある。(経済−知識−意識の関係は現行経済学には現れない。この文脈を踏まえて存在理由(raison
d'etre)の再確認を要する。下記(5)参照)
(2)科学技術の進展に伴う経済発展は自然状態からの乖離を加速し、人間性の破綻/喪失は都市部において顕著である。(大都市問題は日常感覚を拠り所として根本的に再検討を要する。通常の危機管理では対応不能である。)
(3)地球環境問題は社会会計の文脈から展望が開けそうであるが途上国問題との絡みで経済統計の捕捉範囲は極めて限定される。(例えば地球環境会計の構想が定式化/現実化できるか。具体的な事例としてGISに準拠したEFの考え方は示唆に富む。)
(4)経済合理化の進展は会社の利益と社会の利益の間に社会的緊張状態をもたらすが、一部先進企業のBottom-up 管理方式はこの問題解決への道筋を示唆している。(世界規模の企業には生産合理化より社会設計の視野が求められる。「民主主義も工場の門まで」の逆説的な展開可能性に着目したい。)
(5)近い将来に経済問題より宗教/心理問題の方がより深刻になろう。つまり経済発展と裏腹に人間は益々不幸になる。この場合に量子論の進展など画期的な方法論の開発により展望が開ける可能性大である。(例えば量子コンピュータの実用化による意識変革など;この文脈において宗教回帰が地球規模で進展するであろう。)
(6)経済の目的が物質的な豊かさや利便性の向上にある限り人類社会は破滅へ向けて驀進を続ける。疑いもなく経済の目的は人間の救済にあり地球生命系の未来はこの事実にいつの時点で気づくかにかかっている。宗教回帰は上記文脈のもとで途上国を中心に人類史の反転現象として予見できる。ここでレヴィナスの倫理思想が所有関係を巡る経済理論と整合的に結合可能かが問われる。ちなみにこの理論は反哲学的であり全体性の破綻から現れる。
(7)最後に「経済は宗教に優越できない」点を強調したい。つまり、ある社会で経済行為が宗教倫理を超えればその部分は壊死状態に陥り早晩全身に及ぶ。この点はマックス・ウェーバーの指摘どおりである。先進諸国におけるエリート層の尊大化と腐敗の瀰漫は人類的な悲劇への序奏である。この倫理意識欠落の結果は金融危機あるいは新型感染症としてすでに現実化している。問題は予兆から蓋然的台本をどう読み解くかにかかる。参考までに示唆的なサイトを挙げる。